私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
Ⅰテサロニケ2:19
テサロニケ人への手紙第一
3章10-13節
テサロニケの人たちが救われて間もなく、パウロを妬む人たちの妨害によって兄姉たちから引き離されしまいました。ですからパウロは彼らに会いたい、そして彼らの信仰の不足を補いたいと切実です。信仰の不足と言っても、パウロは彼らの「信仰の働き」(1:3)を評価し、苦難の中でも喜んでいる姿(1:6)は「すべての信者の模範」(1:7)とまで。パウロは高い理想を求めているのではなく、神の恵みのみわざを求めているのです。その恵みのみわざに応えて生きることが信仰です。それは「信仰はもう私の中では十分」と言えるものではありません。キリストが示された恵みは私たちの思いや尺度をはるかに超えたものです。それに応えて生きようとどんなに努力しても応えることはできません。つまり信仰というものはいつでも不足があるということです。具体的に、「愛に満ちあふれること」において不足しているとのご指摘(12)。テサロニケの人たちは「愛の労苦」(1:3)の評価を受けているほど、愛の実践において労苦をいとわなかった人たちでした。しかし痛みと渇きの中で「父よ。彼らをお赦しください」ととりなしたイエスの愛と比べるなら、やはり不足を補わなければならない者なのです。この愛には二つの内容を持っています。一つは「あなたがたの間の愛(兄弟愛)」。神の愛に応えてまず第一に必要なのは信仰者同士の兄弟愛です。愛しているつもりでも気の合う人、自分を評価してくれる人だけになっていることに気づくのです。しかし互いの間の愛は、教会に連なるキリストを信じる者だから愛するというものです。この愛(信仰)の不足に気づくべきです。これに続いてクリスチャン以外の「すべての人」に対する愛です。クリスチャンを愛するよりもそうでない人のほうが愛しやすいと思っている人はどちらも愛することができていません。やはり不足を自覚し、愛にあふれることを求めなければなりません。パウロの願いの極めつけは「イエスが…再び来られるとき…聖く、責められるところのない(非の打ちどころのない)者としてくださるように」(13)ということです。イエスの再臨のとき、私たちの信仰の不足が完全に補われ、愛にあふれるのです。聖書が要求してくる信仰の水準がこれほどまでに高いのは、神の恵みとあわれみでないと私たちが生きることができないことを忘れさせないため、もう一つ、イエスが再びおいでになるのを待ち望ませるためなのです。