2020年5月10日 コリント人への手紙第一 -主のみからだをわきまえる-

したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
Ⅰコリント11:27


講解説教№48
Ⅰコリント11章27-34節

 パウロは、主の晩餐がどのようなものか、その本質を伝えてから、間違った仕方でそれに与ることの結果について述べていきます。ふさわしくないままで主の晩餐を受けることは罪であると述べます。ふさわしくないとは、「みからだをわきまえない」ことです。コリント教会のクリスチャンたちは主の晩餐に飲み食いをして、わきまえませんでした。裂かれたみからだと流された血としての主の晩餐をわきまえず、豊かな者が貧しい者、信仰の弱い者を思いやることをしないで自分の喜び、満足を優先して仲間内だけで楽しくしようとすることを、パウロは厳しく指摘しているのです。私たちはコリント教会のように飲み食いはないにしても、自分と違う者を受け入れない、共に歩もうとしないということがあるなら、それは主の晩餐において、みからだをわきまえないことになるのです。「わきまえる」という言葉は、「区別をする」という元の言葉の意味から来ています。主の贖いよって一つとされる主の晩餐において、自分本位な思いと区別する、他の人との違いを受け入れない分派的な思いと区別しなければなりません。聖書は「自分を吟味しなさい」と命じます(28)。「テストをして」(原意)自分を最善の状態にして主の晩餐に与るべきなのです。完全にしなさいと言うことではありません。イエスが再びおいでになるまでは、罪のない完全な人はいません。ただ、自分自身をわきまえ、真実な態度で臨むということです。この聖書の教えを認めて、自分本位な態度や心の内で相手を受け入れない態度を主に悔い改めて、主の晩餐に臨むのです。自分を吟味せずに臨む人は、自分にさばきを招くことになります。「そのために病人や死んだ者が大勢…」(30)というのは、コリント特有のことでしょう。というのは、それが罪に定められた死のさばきであったら、救いに関わることになるからです。パウロは、そのような罪に定められるさばきということではなく、クリスチャンへの「懲らしめ」として語っています。罪に定めることと、さばく(懲らしめる)ことを区別しています。この懲らしめは、少々のものではないでしょう。厳しい懲らしめです。なぜなら、その人のために裂かれたキリストのみからだ、流された血を真にわからせるためです。それがわかったなら、必ず主のみからだをわきまえるでしょう。すなわち、自分と違う者を受け入れ、共に歩むことをするでしょう。