2020年5月3日 コリント人への手紙第一 -主の晩餐-

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
Ⅰコリント11:23



講解説教№47
Ⅰコリント11章23-26節


 礼拝の要素としての主の晩餐において、コリント教会は益にならない集まり、むしろ害と評価されてしまいました。そこでパウロは主の晩餐の本質を伝えます。第一に主の晩餐は、「主から受けた」命令です。パウロはそう言うことで、どんな違反も、それは命令に対して不従順となることを示しています。その命令は種を入れないパンを裂いて、それを主のからだの象徴として食すことです。「裂くパン」(10:16)とは、キリストのからだが十字架で釘づけられ、兵士に槍で突き刺されたことを示しています。このパンを裂いて弟子たちに配る前に、イエスは「感謝をささげ」られました。父なる神が人間のからだをイエスに与えられたことを感謝されたのです。そのからだをもって、世の罪のために死なれたのです(へブル10:5-7)。主の死は私たちの罪を処罰するための壮絶な死です。長時間の激痛、侮辱と恥辱、それらが「裂く」に表されています。人の罪が赦されがたいこと、キリストだけがその罪を赦すことができることを表しています。パンの次の杯は、ブドウの実で造ったものを飲むものです。イエスの血の象徴であり、神と人との新しい契約とみなされるものです。出エジプトの時に結んだ旧い契約は、神が民の神となり、民が神の民となる特別な契約です。その恵みにこたえて、民は自分の神として戒めに従って歩むのです。ところが彼らは神に背き、偶像礼拝に走り契約を破ってしまいました。滅ぼされてしかるべき民に対して神は、新しい契約を結んでくださったのです。それはイエスの血によるものです。罪を赦すために注ぎ出される血、神は二度と彼らの罪を思い出さない、そういう契約です。この契約で神は私たちの罪を思い出しませんが、私たちは罪の重さを思い知らなければなりません。聖書は「雄牛とやぎとの血は、罪を除くことが出来ません」(へブル10:4)、「かえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出される」(旧い契約)と言っています。これは「ただ一度、今の世のおわりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られた」(へブル9:26)キリストへ導くための神の知恵、わざです。主の晩餐において、このような本質的な意味を取り違えて、コリント教会のように食べて楽しむためのものにすることが、どれほど愚かなことかをわきまえなければなりません。