2020年6月7日 コリント人への手紙第一 -御霊の賜物について(2)~聖霊に注目~-

しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
Ⅰコリント12:1


講解説教№50
Ⅰコリント12章4-11節

 賜物は、教会の宣教のわざを助け、導くために、ご聖霊が与えてくださるものです。キリストの福音を宣べ伝え行く教会の宣教の働きと、御霊の賜物は常に結びついています。その両者を切り離そうとしたのがコリント教会です。8~10節に挙げられているコリント教会に与えられた賜物は、神のことばに関わる賜物であることがわかります。彼らはその賜物を本来の目的である宣教のために使わず、自らを誇り、他者を批判するために使いました。人はどうしても賜物に目が行ってしまいます。例えば、「知恵のことば」「知識のことば」(8節)の賜物は、信仰的な知恵と知識を語ることのできる賜物です。この賜物を与えられた人がみことばを語ることで、聞く人は恵まれ、霊的に成長するのです。それによって成長した人が宣教に従事できるようになるのですが、賜物そのものに注目すると、語る人は、賞賛され、自らの力で語ると勘違いします。当時、救われた人にご聖霊が内住することのしるしであった「異言」の賜物も、自らの信仰を誇るだけのものとなってしまいました。そのように、人には賜物だけに目が行く弱さがあります。しかし注目すべきは、そのような弱い人間を通して働いておられるご聖霊です。賜物が与えられなければただの人であり、救われる前は欲に支配された弱い人間を、あえて用いてくださるご聖霊に注目しなければなりません。教会は間違いなくご聖霊によって支えられています。必要な時に必要な賜物を与えてくださり、宣教の働きを助けてくださるのがご聖霊です。ご聖霊によって「イエスは主です」と告白させてくださった教会のひとりひとりを用いてくださいます。ご聖霊に注目し、賜物が与えられた目的に沿って歩むなら、自分を誇ったり、他の人と比較して批判するようなことは減るでしょう。しかし、もし目的から逸れているなら、自分を良く吟味しなければなりません。その目安として、自分の行っていることが「みなの益」となっているかを考えて頂きたいのです。「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れ(賜物)が与えられているのです」(7節)「みな」とは個人ひとりひとりのことではなく、教会全体のことです。与えられた一つの賜物が優れているからと言って教会全体の益になっているとは限りません。