2020年7月19日 コリント人への手紙第一 -御霊の賜物について(8)~教会の成長に役立てるために~-

しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ…
 Ⅰコリント14:24


講解説教№56
Ⅰコリント14章20-26節

 コリント教会の礼拝の混乱問題から「御霊の賜物について」という教えで解決に導いています。異言と預言の賜物の比較から、自らの霊的成長か、教会全体の成長かということを確認しました。今日の教えで、私たちが目を留めなければならないところは別にあります。それは、「不信者、初心の者、信者でない者」要するに、教会において救われていない人たちに目を留めなければならないのです。教会の中には自らの成長ばかりを考えるクリスチャンがいて、また、教会全体の成長を考えるクリスチャンもいます。さらに教会には未信者こそいます。地上の教会の成すべきことは、失われている人たちへの宣教です。教会が宣教の働きが出来るために御霊の賜物が与えられているのです。ですから、コリント教会の御霊の賜物問題で目を留めるべきは、霊的な事柄を全く知らないクリスチャンではない人たちです。そのために、パウロは、物の考え方において大人になりなさいと命じました。主の教えの理解と実践において大人になることです。一方で悪事においては幼子でありなさいと。自慢や他者の批判を平気でするのは子どもです。パウロは子どもではなく、それすら考えることのできない幼子、赤ちゃんになれと言っているのです。次にパウロは、異言が不信者のためのしるしであることを教えます。ペンテコステの出来事が良い例です(使徒2章)。弟子たちによって語られた「他国のことば」(外国語、異言)を聞いたのは未信者の外国人たちでした。自分の国のことばで話されていることを驚きながらも、その意味については「甘いぶどう酒に酔っている」というあざけりの反応でした(2:13)。ですからぺテロはそのあと、異言の解き明かしである説教を語って行ったのです(2:14-36)。教会において、もし異言だけなら、未信者の人たちは気が狂ったと受け取ります。しかしもし、解き明かし、説教、伝道がされるなら、罪が示され、心の秘密があらわにされ、最終的に神を拝むでしょうと言うのです。教会の中でその人たちにこそ目を留めなければならないのです。個人の霊的成長も必要です。教会全体が成長するために働きかけなければなりません。それも未信者が救いに導かれると言う宣教の実践を見据えてのことです。