2012年12月23日 飼葉おけのキリスト

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
イザヤ42:3

イザヤ書42:1-4

 人を救うのが「救い主」ですが、人を救うって大変なことだ!という視点からクリスマスを考えてみたいと思います。

 聖書が表現する「いたんだ葦」も「くすぶる燈心」も、今にも息絶えそうな弱い人間を意味しています。罪ゆえの弱さなので複雑で厄介です。第一に人の心は陰険でそれは直らないと聖書は言います(エレミヤ17:9)。表面は何気なく装いますが、心の内は見られたくないものを隠します。悔しさやねたましさだったりと、そういう否定的な力を生きるエネルギーにさえします。その力があるうちはいいですが、なくなったときの答えを持っていません。また聞く耳を持たず自分勝手です。第二に人は孤独です。ひとりで生きることができないのが人間ですが(創世記2:18)、自分勝手に独りになってしまいました。誰かが寄り添っていても自分の存在意義が見えなくなった途端に孤独感に襲われるのです。こういう人を救うことは大変です。

 救うために必要なものは二つ、第一に救う力です。人が持ち得ている力では足らず、万物を創造する力でなければなりません。創造する力というよりも、「地の果てまで創造された方」(イザヤ40:28)、つまり、人を救うには神が必要なのです。第二に受け入れる低さです。身勝手で淋しがりやの罪人を受け入れるには、その人よりも低い位置でなければできません。それを現しているのが飼葉おけのキリストです。創造の神とキリストは別々ではありません。力があって最も高いところにおられる方が、最も低いところに降りて来られたのです。このキリストの救いはすべての人に提供されています。このキリストを信じるならだれでも救われるのです。