2013年3月24日 キリストの受難  だれが信じたか

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
使徒24:14  

イザヤ53章1-9節

 救い主メシアを待ち望むユダヤ人たちですが、聖書を読み進めると、救い主に関して理解に苦しむことがたくさん出てきました。「エッサイ(貧しい羊飼い)の根株から新芽が…」(11:1)これもメシア預言です。エッサイは軽蔑を意味するので、それが救い主とは受け入れがたく、53章では砂漠の地から弱々しく出て今にも枯れそうな根として救い主を表現しています。確かに見とれる姿も、輝きもなく(2)。そんな姿を誰も救い主として信じません。だから人々はさげすみ、のけ者にし、尊ばなかったのです。「だれが信じたか。(いやだれも信じない)」と、自信をもって否定しているわけです。

 しかし聖書が7百年も前からあらかじめ伝えている救いと救い主について無視するわけにはいきません。「だが、私たちは思った」(4)と聖書はなぜ救い主が苦難を負っているのか、その意味を教えます。神に罰せられたのです。その理由が人間の罪にあることを教えています(5)。その罪とは人の命に直結するものであり、罪のままなら死を報いとして受け取らなければならないものです。自分の罪の状態も、救い主の苦難の意味も知らない無知な人間を聖書は露骨にあらわしているのです。無知のまま神を無視し、なおも理屈を捜し求める人間を、神は救う必要があるのでしょうか?そんな義務はないはずです。「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(キリスト)に負わせた」(6)神が人を救う動機は真実な愛です。キリストの苦難の頂点、また神の愛の最高のあらわれが十字架です。人間の罪をキリストに負わせられたのです。神は御子キリストを罪人として罰したのです。本来神にさばかれるべき私たちはキリストの身代わりゆえに罪のゆるし、永遠の救い、神の子としての身分を授かったのです。