2013年4月21日 捜し出して救う神 (小山師)

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
ルカ15:7


ルカの福音書15章1-7節
 イエス・キリストは、私たち人間を「羊」、ご自身を「羊飼い(羊を百匹持っている人)」にたとえ、その関係をわかりやすく教えている。一匹いなくなっていることに気づいた羊飼いは九十九匹を野原に残し、いなくなった一匹を捜しに行く。夕方から捜し始め、日が暮れてしまうと、当然捜すのは難しくなる。でも、この羊飼いには「見つからなかったら、あきらめる」という考えは全くない。見つけるまで捜し歩く。決してあきらめず、決して見捨てないのだ。 羊は、弱い動物である。群れから引き離されると強いストレスを受けてしまう。見つかった一匹の羊は弱り果てていたことだろう。羊を見つけた羊飼いは、まず大喜びする。「お前、こんなところにいたのか。良かった! 捜したぞ!」そして、自ら羊をかついで帰って行く。羊は、羊飼いにされるがまま。羊飼いにすべてを任せるだけである。そして、帰った羊飼いは、羊が見つかったことを他の人に知らせ、喜びを分かち合う。この羊飼いは、これほどまでに一匹の羊を大切に思っている。これほどまでに愛している。この羊飼いにとって、自分の羊はかけがえのない存在。「一匹くらい、いなくなっても…」という考えは全くないのだ。

 イエスは、このたとえを通して宣教の原点を人々に示す。今も生きて働いておられるイエスは、ひとりの罪人を救うために、捜しに出ておられるのだ。イエスを信じていない人は、このイエスにそのままかついでもらえば良い。そうすることが「信じて救われる」ことである。そして、イエスを信じるクリスチャンは心に留めたい。イエス・キリストはこの地に教会を建て、教会を通して一匹の羊を捜し、救おうとしておられることを。