2013年5月12日 エペソ人への手紙-神への賛美- 

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。
エペソ1:3(前半)

講解説教No.1
エペソ1章1-3節

 エペソ人への手紙は、神への賛美で本文が始まっています。私たちも教会の礼拝で歌による賛美で始めます。キリスト教信仰では神への賛美が当然のようにささげられます。他宗教ではどうかというと、賛美する宗教はあまり見当たりません。賛美と感謝の違いを考えるとその理由がわかります。感謝というのは、自分に施された神の恵みがあって、そのことにお礼をするものです。ご利益への感謝が多くの宗教には見られます。一方賛美とは、自分の利害と関係なく、神ご自身が素晴らしいためにたたえるものです。パウロはピリピという町でキリストを宣べ伝えただけで、捕らえられ、鞭打たれ、獄中で足かせを課せられ自由を奪われました。彼は理不尽な思いを訴えたのではなく、獄中で神を賛美したのです。エペソの手紙においても、正しいことのために囚人の身となったにもかかわらず、神をほめたたえているのです。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)と旧約時代の信仰者も賛美しました。

 なぜ神を賛美するのか?それは神が永遠にほめたたえられるべきお方だからです。神が私たちに何か良いことをしてくださったから賛美するのではありません。賛美されるべきご性質を神がお持ちだからです。公の礼拝で、歌としての賛美をささげるとき、それは礼拝の形式でもなければ、私たちの気持ちを盛り上げるものでもありません。神をほめたたえるから歌うのです。

 「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を記し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない」(ヨシュア7:19)自分中心から神中心になると、神に犯した自分の罪深さが浮き彫りになります。悔改め、神を賛美すると、神の偉大さを、自分の弱さのうちに再確認できます。