2014年8月24日 ルカの福音書 -イエスの先駆者-

そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。
ルカ1:16


講解説教No.2
ルカ1章5-25節


 「正確な事実であるから、確かに信じてほしい」というのが著者ルカの本音で、それを視点にバプテスマのヨハネ誕生の出来事を見ていきたいと思います。

 この場面は、神殿で奉仕者である祭司が民のために礼拝をささげているところです。旧約聖書の教えで犠牲のささげものを祭司によってささげます。コルバン(ささげもの)と言って「(神)に近づく」という意味があります。罪人である人間が神に近づくことなど出来ないわけですが、罪人の代わりに家畜が犠牲となってささげられました。その奉仕をするのが祭司でザカリヤも妻エリサベツも祭司の出で、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行なっていました。神のおきてを疑うことなく忠実に行なっていたのです。彼が当番のとき、一生に一度しか巡って来ない香をたく奉仕の恵みに預かりました。そのとき彼は天の使いの出現に遭遇し、驚くべき恵みの言葉を聞くのです。夫婦の長年の祈りが答えられ子が与えられるとのこと、またもう一つの祈りの答えとして、イスラエルの救いが与えられることです。彼が祈り求め、奉仕して来たその答えが与えられたのですから喜ぶべきです。ところがザカリヤは信じることができませんでした。神への願いの度合いがどれほどのものかわかりませんが、高齢であるという理由で喜びのおとずれを受け入れることを拒否したのです。

 何にもまさって確実なものは神のことばです。ルカは、このような神の事実(真理)を信じることが、どれほど救いにとって重要なことであるかを記録したのではないでしょうか。このあとの御子キリストをみごもる告知を受けたマリヤが「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は」幸いであると記録しているところを見ても、事実を信じることの重要性を訴えていると理解することができます。医者であるルカはザカリヤの心のうちをかつての自分と重ね合わせたかもしれません。ザカリヤの不信仰がむしろ救い主の真実性を強めているのではないでしょうか。人は信じるに全く価しない不確かなことを容易に信じる者です。であればなおさらのこと、確かな神の事実を信じたいものです。