9月7日 ルカの福音書 -マリヤの賛美-

マリヤは言った。
わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
ルカ1:46、47


講解説教No.4
ルカ1章39-56節

 救い主をみごもることを告げられたマリヤは、90キロも離れている親類のザカリヤの家に急いで向かいました。喜びの報告へと思いたいですが、彼女には厳しい現実が待っていました。妊娠したことが知れ渡れば、ユダヤの法律上、町の人たちの反感を買うことは明らかでした。身の上をもしかしたら理解してくれるであろう親類宅へ急いだのでした。マリヤは受け入れられました。マリヤに向かって「私の主の母」と呼んだエリサベツは、マリヤのお腹の胎児を「私の主」と崇めたのです。私たちの現実社会も「救い主」を受け入れる人はほとんどいません。心許せる友人でさえです。だからこそ、「私の主」と崇めている人たちの集まりである教会に急ぐのです。そこで励まし合い、主をたたえ、そして世に出て行き、主を証しし続けるのです。山地に向かう途中のマリヤには賛美より不安が勝っていたことでしょう。しかし励まされたマリヤは賛美に転じました。賛美は低いところの人間から、高い所の神に向かってささげられるものです。自らを卑しいはしためと見なしたマリヤは高らかに神をたたえました。神よりも低い位置にいない者から賛美は生まれません。いつも理屈を探し求めている人から賛美は生まれません。

 マリヤが神をたたえることのできるもう一つの理由は、聖書のことばを良く知っていたことです。この賛美の多くは旧や聖書の引用です。特に詩篇が多く、52,53節はⅠサムエル記2章をを引用しています。54,55節は詩篇の引用ですが、アブラハムに対する神の約束がイエスにおいて成就していることをたたえています。マリヤは神の救いのご計画を聖書からちゃんと知っていたのです。聖書に示されている主なるお方を知りたい!と熱心に学んでいたことがわかります。私たちももっと学ばなければなりません。祝福と守りのために学ぶのではなく、成長するために学ぶのでもありません。主を知りたいと欲し学ぶのです。そうすればその結果として成長するし、祝福は注がれるでしょう。主を喜びたたえることは、私たちの力となります。厳しい現実を見据え、主をたたえることが、キリストを証する力となるのです。