2014年10月19日 ルカの福音書-受難の救い主-

また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
ルカ2:20


講解説教No.9
ルカ2章21-39節

 救い主を賛美するシメオンの言葉に驚くマリヤとヨセフがいます。これはイエスの教えを受け付けられない郷里の人たちの驚きと同じものです。イエスが御救いそのものであることは両親にとってもOKでした。しかしそのイエスが万民に備えられたもの、異邦人をも救う方という理解はなかったのです。彼らにとって異邦人は神に敵対する者です。シメオンと両親の救い主に対する見方が随分と違います。さらにシメオンは両親への祝福の言葉として、幼子が「反対を受けるしるし」であり、多くの人の心の思いが現される原因であると。後にイエスが苦しめられ、侮辱され、十字架につけられることで両親の心さえも刺し貫くとまで言われました。どうしてこれが祝福の言葉なのでしょう。彼にとって捨てられた救い主、受難の救い主こそ、真の救い主であると見えたのです。救い主こそ罪人を救うからです。神に打ち砕かれた罪人にとって受難の救い主こそまことの神です。もし、救われた今、私たちの心が高ぶるようなことがあるなら、救い主のお姿は見えなくなるでしょう。マリヤ自身も「主は…心の思いの高ぶっている者を追い散らし、」と歌っているほどです。自分の正しさを貫こうと意地になっている人には、分かりたくても救い主はわかりません。マリヤとヨセフが忠実に「主の律法による定め」を果たしたとしても、シメオンが見た救い主を見ることはできません。その律法の行き着くところは「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり」(マタイ7:12)という、『愛をもって他の人に仕える』ことです。彼らがこの律法理解を実行するならイエスのことが良くわかります。その律法を成就するために来られたのがイエスだからです(マタイ5:17)。続いて神の不思議によって救い主イエスと対面したアンナも、シメオンと同じ救い主理解の持ち主でした。ですから彼女は受難の救い主に感謝をささげることが出来ました。自分の見たいように救い主を見ないようにしなければなりません。群衆は散々そのようにイエスを見てきました。挙句の果てにイエスを捨てました。いかにしてイエスを見、受け入れるべきかをよく考えましょう。