2014年10月5日 ルカの福音書-すばらしい喜びの知らせ-

御使いは彼らに言った。恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
ルカ2:10


講解説教No.7
ルカ2章8-13節

 救い主誕生のすばらしい喜びの知らせは、一番最初に羊飼いたちに伝えられました。これが偶然であるとは、時の権力者をも動かす神の救いのご計画から言うことは極めて不自然です。ではなぜ羊飼いたち?羊飼いは職業柄常に屋外で羊を見守っていなければならず、雇われ羊飼いは、失った羊を弁償しなければなりませんでした。トーラー(律法)の学びが重要視された時期などは律法学者と敵対関係になりました。常に羊といっしょにいる彼らにとって律法など無縁です。宗教指導者に右へならえのユダヤ社会において、おのずと無学な者たちには冷ややかな視線が送られるようになりました。落第点が押され、次第に人々とかかわることが許されなくなっていきました。こういう存在を新約では「失われた人」、旧約では「いたんだ葦、ちり」などと表現しました。「私たちの成り立ち…ちりに過ぎない」(詩篇103:14)まさに人は土地のちりから造られた者。その人間は罪を犯して神から離れたことによって、事実ちりあくたとなってしまいました。人は尊い者に造られたのに、人はそれを自ら捨てたのです。価値のない者が行なう行為も価値がありません。ですから神は、地上に悪が増大し、心に計ることがみないつも悪に傾くことを確認されました。明らかなことは人は罪を犯し続けること、神は罪人を愛されたことです。罪を犯した者を愛するということは、犯した者の罪を覆いかぶさらないと愛せません。神は人と一方的な契約を結ばれ、そのゆえに愛されたのです。神は疲れたたましいを潤し、しぼんだたましいを満たしてくださいます(エレミヤ31:25)。その満たし方が羊飼いたちに与えられたしるしにあります。すなわち、かいば桶の救い主です。どんなしぼんだたましいもお救いになるため、私たちより低くなられたのです。あわれみを向けられた私たちは、それに答える責任があります。なぜなら自ら神を離れ、死んだものとなった人間をあわれむ義務が神にはないからです。答え方は委ねられています。すなわち、「はい」か「いいえ」かです。羊飼いたちは受け入れました。あなたはどうですか?