2016年2月28日 ルカの福音書-内側のきよさ-

すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。」
ルカ11:39


講解説教No.65
ルカ11章37-44節

 ユダヤ人の伝承で、食前にきよめの洗いという宗教的儀式がありました。「すべて汚れたものに触れるなら、…気づかなくても、彼は汚れた者となり…」(レビ5:2)という聖書に基づくはずのその教えが一人歩きし、聖書に成り代わってしまいました。パリサイ人(ユダヤの宗教指導者)の食卓に招かれたイエスは、それをあえてなさらずにいました。驚いた彼らに対して、「外側はきよめるが、その内側は強奪と邪悪とでいっぱいです。」と彼らの偽善を厳しく批判されました。その内側は欲望を抑えることが出来ない壊れたブレーキのような状態で、それが溢れています。やはり聖書に基づくはずの「(収穫の)十分の一」をささげることもスパイスにいたる小さなものも厳格に守りました。ところがイエスは肝心な「公義と神への愛はなおざりにされている」と批判されました。これを変えることは、キリストの取り扱いを受けなければ不可能です。もし私たちが「礼拝に来ているか?聖書を読んでいるか?祈っているか?奉仕をしているか?」ということにこだわるなら、それは外側です。イエスが求めておられるのは「どういう動機で礼拝に集うのか?どのように聖書を読み、どのように祈るのか?どういう動機で奉仕をするのか?」という内側です。それらを聖書で教える神の真意を正しく汲みながら行っていくのです。批判の中にも解決の道を示しておられます。「とにかく、うちのものを施しに用いなさい」(41)他の人を愛しなさいという律法の真髄を実行せよということです。愛がなおざりにされている彼らに無理な要求です。いえ、それが狙いであって、イエスは善ではないことを善だとだましている彼らの偽善をひっぺがして、愛もきよさもない彼らを丸裸にしようとされました。そして彼らの出来ないすべての責任を十字架上ですべて負いかぶさるのです。この方の前に偽善の罪を認めることが求められているのです。そしてすべての責任を負われるお方に自分を委ねていくのです。