2016年7月17日 講解説教No.81 ―神の大切なもの―

なたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
ルカ15:4



ルカ15章1-10節

 14章の流れからイエスはパリサイ人、律法学者たちに失われた一匹の羊のたとえと、なくなった一枚の銀貨のたとえを話されました。100匹いた羊のうち1匹がいなくなったら見つかるまで捜し歩かないだろうか?というものです。このたとえで大事な点は「あなたがたも」です。つまり、自分の大切なものがなくなったら当然、必死に探し回るだろうということです。なくした一枚の銀貨も同様です。彼らがそれらを捜すのは、その人が特別慈悲深いからではありません。自分の大事なものだから捜すのです。こうしてイエスはだれの中にも当然あるこの思いに目を向けさせ、「神のもの」、「神の大切なもの」を伝えようとしました。神はご自分の大切なものが失われていくのを、黙って見ていることの出来ないお方です。捜しに来られ、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとされるのです。イエスが取税人、罪人たちと食事をし迎え入れるのは神のみこころに従ってのことなのです。イエスの招きに応えず、主の教えに聞く耳を持たない指導者たちもまた失われた人たちです。神にとっては彼らも自分のものであって、取り戻そうとされるのです。神がご自分の御子を送られたのは、他でもないそのためです。キリストは失われて迷子になっている私たちを捜し出し、神のもとに連れ帰ってくださるまことの羊飼いとしてこの世に生まれたのです。では、私たちはあの取税人、罪人たちのように、イエスのもとに話を聞こうとして集まってくるのか?それともパリサイ人、律法学者たちのように、自分の罪を認めようとせず、イエスの招きを拒むのか?この問いが突きつけられています。きょう、このたとえ話からシンプルにイエスキリストの救いを考えましょう。あなたは神の大切なものです。神はあなたを見出して喜びたいのです。神の招きに応じましょう。