2016年10月9日 ルカの福音書 -失望せずに祈れ-

あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。
ルカ18:8


講解説教No.91
ルカ18章1-8節

 失望しないで絶えず祈ることをたとえで教えられました。「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」は神を信じない、自分の利益のためにしか動かない人です。彼以上にさばく立場の人がいないので、自由に自分の得のためだけに動くことができます。彼がやもめの訴えを取り合わなかったのは何の得にもならなかったからです。やもめは社会的に弱い立場の代表です。裁判官がどういう人であれ、そこに行って「相手をさばいて、私を守ってください」と訴えるほかありません。イエスはこの弱い立場のやもめの姿に、失望しないで絶えず祈る姿を見ておられました。支配している人が裁きを行うことができます。今この世界は、神を恐れず人を人とも思わない力が支配しています(エペソ6:12参考)。そこにこそ、神を恐れて人を尊重する正しい裁きと支配が確立することを願い求めるのです。では、どうしたら気落ちしないで求めることができるでしょうか?それは目に見える現実の背後から、神こそがこの世を支配しておられることを信じていることで祈ることが可能になります。神の裁きと支配はすでに確立しているのです。ただ、今神の支配は完成していません。それはイエスが再びおいでになるまでは目に見えないもの、信じるしかないものです。同時に神を恐れない人たちの支配がそこにあります。その中で御国の完成を信じつつ忍耐して生きるのです。失望しないで祈りながら歩むことが大切なのです。さて、たとえで裁判官はやもめの訴えを「うるさくてしかたがないから」というやはり自分の損得の理由から、かなえてやりました。自分本位な裁判官でさえそうなら、主の民のために惜しみなく与える神は必ず私たちの祈りに答えて、裁きを行ってくださるということを教えています。私たちは失望しないで祈り続ける理由と根拠を知りました。同時に、祈りを止めてしまう根拠がないことも。それはただサタンがほほ笑むだけです。祈りを止めていた人は祈り始めましょう。祈っていた人はやもめのようにもっと祈りましょう。