2016年10月16日 ルカの福音書ー自分を低くされるか、高くされるかー

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
ルカ18:14


講解説教No.92
ルカ18章9-14節

このたとえの結論は「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」(14)です。「自分」という言葉がくり返し使われているキーワードとなりますが、イエスが問題とされているのは『自分のことをどう見るか(自己評価)』です。「パリサイ人」は律法を厳格に守り、正しい生活を送っていた人です。誰もが神のみ前に出て祈るのに相応しい人と見られていました。彼の祈りは「感謝」でした。その内容は、自分が罪人とは違う生き方が出来ていること、献金など自分の信仰の行いが出来ていたことへの感謝です。「取税人」は異邦人に加担する裏切り者、罪人の代表と見られていた人です。彼の祈りは「赦し」を請うことでした。この取税人が義と認められました。彼の祈りが聞かれ罪が赦されたのです。一方パリサイ人は義とされませんでした。つまり彼は神に罪人と宣言されたということです。なぜでしょう?パリサイ人の見つめていたものは取税人を含むいわゆる罪人たちです。それと、そういう罪人たちとは違う自分自身をも見つめていました。つまり彼は他人と自分ばかり見て、神のほうは一つも見つめていなかったのです。彼の「心の中の祈り」は「自分自身に向かって祈った(直訳)」ものであって、根本的な問題があります。祈りではないということです。一方取税人の目には周囲の人はひとりも入っていません。ただ神に赦しを乞うことであって、目を天に向けていないのではなく、彼には神しか見えていないのです。取税人は宮の隅っこで、パリサイ人は中央で祈ったことでしょう。しかし神のみ前に立っていたのは取税人です。パリサイ人は神のみ前にいません。人の前にいます。この両者の違いが自分を高く評価するか、低く評価するかという違いを生んでいます。人の前、つまり人間同士の比べ合いに生きている限り、私たちは常に自分を高く評価されたい者であり続けます。大切なのは神のみ前に立つことです。その方がさばきをなさる方だと知る者はおのずとみ前に立つことができます。