2016年11月27日 ルカの福音書 -盲人の救いに見る魅力ある生き方-

彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。
ルカ18:43


講解説教No.97
ルカ18章35-43節

 イエスに向かって「ダビデの子よ」と叫び求めた盲人は、金持ちの役人の求めとは対照的です(18:18)。ダビデの子孫にまことの王である救い主が誕生するというのが旧約聖書の預言です。つまり彼は「イエスこそ救い主です」と叫んでいるのです。「こんな罪人の私をあわれんでください」(18:13)と祈った取税人のように、無力で母に泣き求めるほかない乳飲み子のように盲人は「あわれんでください」と願いました。道行く人たちからイエスとその福音の知らせを聞いていた彼は、叫び声に見るようにすでにイエスを信じています。その彼がしたことは、「キリストに会いたい」ということです。救われた人が一番求めることは、イエスとの交わりです。世俗との交わりは黙っていても罪の思いのまま進んでしまいます。イエスとの交わりはそういう中で特別なものとして聖別しましょう。礼拝を通して、デボーションを通して、クリスチャンとの交わりを通して、交わりの楽しみと喜びを経験しましょう。イエスは盲人を連れて来るように指示しました。イエスご自身が行かれたほうが早いですが、あえてお呼びになりました。本当にイエスを求めているかをご覧になりたかったからです。イエスは試して「何をしてほしいのか?」と尋ねられました。彼ははっきりと「目が見えるようになることです」と。彼はもっと沢山の施しがもらえて生活を守ってほしいと願いませんでした。彼が求めたことは「あわれんでください」との求めからわかるように、問題の本質を知っている者として、根本問題から救われることを願いました。生活、勉強、仕事、人間関係…現実問題として切実です。しかしそれらは苦しみの根本ではありません。それらを求めている人はイエスそのものを求めてはいません。根本的な問題を解決したい人は、根本を解決してくださる方を求めるはずです。彼は自分のみじめさの中で、イエスこそ救い主であると信じ、あわれみを求めて、イエスによりすがったのです。イエスはそれを「あなたの信仰」と言っていやされました。見えるようになった彼は、神を賛美しながらイエスについて行きました。問題が解決されたあとのあなたの行動はどんなでしょう?解決されたこと自体を喜びそれっきりでしょうか?クリスチャンの魅力ある生き方は問題が解決されることではありません。解決されてイエスについて行くことです。逆に本当の問題は目が見えないことでも、様々な苦しみでもありません。心底信頼してついて行くことのできるイエスに出会わないことこそが大問題です。イエスについて行くこと、すなわちイエスの弟子となることです。イエスが向かっている十字架と復活の道について行くことです。これは失われた人に永遠のいのちを与える道です。なんと魅力ある生き方でしょう。あなたも今日もイエスと交わり、イエスについて行きましょう。