2017年6月25日 ルカの福音書 -黙って神を待ち望む-

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
詩篇62:1


講解説教No.120
ルカ23章1~12節

ユダヤの裁判で、イエスが自らを神とすることばを語ったと判断され、有罪が宣告されました(22:70,71)。しかし死刑にするためにはユダヤでその判決が下されても執行は許されていません。それは政治的な判断としてローマの法のもとで行わなければならないのです。そのため彼らはローマ総督のところにイエスを連れて行きました。この時の訴えの一つはカイザルに税金を納めることを禁じたというものです。しかしイエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい」とローマへの納税を認めています(20:25)。敵方が偽証したわけです。もう一つは自分を王であると言って皇帝への反逆罪を訴えました。間違ってはいませんが、イエスは自分の利益と保身に走ってしまうような世の王とは違います。王であるかどうかをイエスに尋ねたところ、新改訳では「そのとおりです」(3)と訳されていますが、原文に近づけて訳すと「あなたたちは言っています」となります。つまりイエスはピラトに対して「はい」とも「いいえ」とも答えておらず、問いに対して沈黙したということです。ガリラヤ管轄のヘロデの調べの時にも「イエスは彼に何もお答えにならなかった」(9)のです。二人の総督が罪を認めることができない不当な訴えがなされていたにも関わらず、イエスが沈黙を貫かれたのは、イエスがただ父なる神に向かっておられたからです。ただ父にだけ聞いておられたからです。私たちもイエスに倣い、神に向かうことが求められています。神に向かうとは人に聞くことを止めることです。或いは自分自身に聞くことも止めるのです。人の言葉は口先だけが多く、欺きの言葉が私たちの内面を支配していることもあります。あのユダヤ指導者たちもそうでした。沈黙はそれらの人の言葉を一切遮断することです。