2017年8月6日 主イエスが再び来られるとき

私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
Ⅰテサロニケ2:19


テサロニケ人への手紙第一
2章19、20節

クリスチャンは「交わり」と呼ばれる信仰者同士の交流を大切にします。パウロもテサロニケの兄姉の「顔を見たい」と切望しています。親ぼくが目的ではなく互いの神への信仰のために必要とするものです。その交わりをサタンが妨げたとパウロは言いました。サタンの目的は私たちを神から引き離すことです。神との交わりを奪うことが引き離しに効果的だとサタンは知っています。神との交わりを得るためにはただ聖書を学び、祈っていても不十分です。実はクリスチャン同士の交わりを通して体得していくものです。パウロは妨げられたことで益々再会の思いを募らせます。その強い思いがテサロニケの人たちを「私たちの望み、喜び、誇りの冠」と呼ばせました。大切なのは「イエスが再び来られるとき、御前で」という前置きです。再臨のイエスの御前との前置きがあるということは、彼らの希望、喜び、誇りの冠は現在そこにあるものではないということです。今現在の私たちを見てそれらが実際にあればいいのですが、どうでしょう?それよりむしろ、弱さがあり、欠けがあり、失望のほうが…。そういう人を見たら賞賛するよりもダメ出しするほうのが明らかに多いのです。パウロが彼らを喜ぶことができたのは現在を見据えたのではなく、イエスが来られる再臨のときを見ていたからです。その時神の支配が完成し、サタンの力が滅ぼされ、そして私たちがイエスと同じ復活にあずかります。そのときイエスと直接会うという究極の交わりが実現します。その完成された姿を彼らに見ていたのです。きょう、大事なことは「再臨のイエスの御前で」という前置きです。それは不完全な自分の完成のときです。しかも確実に起こることです。この前置きがあるのとないのと、現在の生活にどんな違いがもたらされるか認識したいものです。