2017年11月12日 ペテロの手紙第一 -見てはいないけれども信じている-

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」                Ⅰペテロ1:8

講解説教No.4
Ⅰペテロ1章8~12節

 クリスチャンは悲しみのただ中で大いに喜ぶことができます。それは「信じている」ということが喜びと幸福を確信させてくれているからです。著者のペテロは肉体を持つイエスに直接お会いしていました。しかし私たちは直接お会いしたことも、触れたこともありません。それなのに愛しているのです。愛するというのは、神の祝福が欲しいから信じ、愛するのではありません。信じ、愛した結果、神の祝福に預かるのです。その意味から、ご利益を前提とした宗教には本来愛を必要としません。その宗教においても「信じる」という言葉が使われるでしょうが、「イエスを信じる」と同じにはなり得ません。直接お会いしていないのに愛しており、試練の中で悲しみつつも、イエスと直接お会いするのをずっと待ち望むことなど、利益を優先する人たちには極めて難しいことなのです。試練の中でこそ、イエスを信じている信仰こそが喜びと幸福を確信させてくれていることを知ってください。この救いについて聖書の預言者たちは熱心に尋ね、また細かく調べました。私たちは救いの喜びを知っていますが、彼らはそれを知らないから、知りたくて尋ね、調べたのです。また御使いたちも、この救いとその喜びについてはっきり見たいと願いました。御使いたちも味わいたかったからです。私たちは味わっているのです。ペテロは手紙の読者たちに、与えられた救いの素晴らしさと偉大さを言葉を言い換えながら、くどいほどに繰り返し教えました。その救いに基づくなら試練のただ中で本当に喜ぶことが出来るからです。救いの教えをリピートし続けているもう一つの目的は、私たちが救いの素晴らしを忘れてしまう(見失ってしまう)からです。日常の勉強や仕事の忙しさで忘れ、人間関係で忘れ、逆に魅力的なことが他に起こると忘れてしまうのです。私たちに与えられた救いはそんなにもく弱いものでしょうか。そうではないのだとしたら、どうしてそうではないのか、みことばからしっかり検証してください。検証したなら、あなたの困難な状況の時、改めて自分に与えられた救いを見つめ直してください。そして、これ以上大丈夫と言えるものはないとの結論が出て来ることを確かめましょう。