2018年2月18日 宣教月間 -全世界に福音を(2)-

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。          
Ⅱコリント8:9


コリント人への手紙第二8章1~15節

困窮するエルサレム教会を支援したマケドニヤ諸教会も「苦しみゆえの激しい試練」の中でした。そういう場合、お金を得たいし、蓄えたいと願うのが普通ですが、彼らは献金したいと願いました。その働きの源泉は「イエスキリストの恵み」にあります(9)。キリスト以上に気前のよい方はいません。自分の命に至るまでのすべてをささげられました。この方は富んでおられました。世界が存在する前に父なる神といっしょにいて持っておられた栄光(ヨハネ17:5)というこれ以上ない富です。しかし私たちを罪から救うために一番貧しくなられました(十字架の死)。この恵みを知っている人は、自らを神にささげずにはいられません。自らをささげるとは、その恵みゆえに絶大な信頼をもって自分を任せ切ることです。その結果として自分の所有のものをささげるのです。この原則から献金は自発的にするものであり、命じられてするものではありません。パウロはそれを「熱意」と表現しています。それを持続し途中であきらめることなく励むためには「持っている程度に応じて」ささげます。それがわずかな額でも良いのです。大切なのは進んで、喜んで、継続的にです。「余裕ができたらささげる」ことは聖書のおしえにはありません。キリストの恵みによって原則のとおりに行うと、教会は「一つ(一体性)」という性質を持つようになります。それは互いをいたわり合い、平等をはかってバランスを取るようになります。他の欠乏を補ったことで全体が喜ぶのです。マケドニヤ諸教会はそれを自分の教会だけではなく、困っている他の教会にも適用したのです。この献金は、①イエスキリストの恵みから発進します。②そうすると、おのずと、互いを補い、いたわり合うというバランスを取ろうとします。それが献金のバネになります。③あとは熱意があれば自分の持っている程度に応じて継続支援が可能となります。