2018年11月11日 ペテロの手紙第二 -主に仕えるか、欲に仕えるか-

「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。」  ローマ16:18

講解説教No.15
Ⅱペテロ2章13-16節


 偽教師たちは「昼のうちから飲み騒ぐことを楽しんでいる」(13)とありますが、「楽しみ」と訳されている言葉は「快楽、欲望」とも訳すことが出来ます。つまり彼らは楽しむべき事柄を楽しんでいるのではなく、罪そのものを楽しみにしているのです。このことで偽教師たちが救われていないということがわかります。救われた人は罪から離れていくので罪を楽しむことが出来なくなります。「昼のうちから」罪を楽しむ彼らは放蕩生活を白昼堂々と行って隠そうとはしません。また彼らは自分たちが汚れた生き方を楽しむだけでは足らず、教会に集まる人たちをだまして、自分たちの生き方にならうように教えます。こういう彼らをペテロは「しみ(汚れ)や傷(欠点)のようなもの」と言って、神の前に全くふさわしくない存在であることを明らかにしました。彼らの見た目は私たちと同じようにキリストに仕えているように見えます。しかし、その実態は欲に仕えているのです(ローマ16:18)。教会の外でも内でも、私たちに悪い影響を与えるものが取り囲んでいます。避けることが出来ない私たちの最大の守りは真理のみことばに堅く立ち続けて、自分の内側を強くすることです。そのことは1章ですでにまなびました。ペテロがしみ、傷という言葉を使ったのは、「傷もなく汚れ(しみ)もない小羊のようなキリストの、尊い血」を意識してのことでしょう(Ⅰペテロ1:19)。一点の罪もない方の尊い血によって贖われた人も、イエスと同じように「しみも傷もない者として」(Ⅱペテロ3:14)変えられて行きます。
偽教師たちの罪は性的なことにまで及びます(14)。そして彼らは「心の定まらない者たち」を誘惑します。心の定まらない人とは、信仰の土台がしっかりしていない人たちのことです。こういう人たちがすぐに誘惑されるのです。なぜその人たちの信仰はぐらつくのでしょう?聖書を学ばないからです。神が何を言っておられるのかということがわからなければ安定しようがありません。また聖書を学んでも忘れる人は、やはり信仰が不安定です。忘れてしまうのは、学んでもみことばを実践しないからです。
物欲に負けた預言者バラムの例も語られましたが、その中で神はバラムの罪をとがめられたとあります。これは神のあわれみで、罪をとがめられて悔い改めた人は幸いです。神はさばくためにとがめません。あなたの罪を赦すためにとがめるのです。