2018年11月4日 ペテロの手紙第二 ー高ぶり(プライド)の罪-

高ぶりの足が私に追いつかず、悪者の手が私を追いやらないようにしてください。
詩篇36:11


講解説教No.14
Ⅱペテロ2章10-13節

 偽教師たちは大胆不敵です。自分を過信するあまり聖書の警告に耳を貸しません。彼らは尊大な者たちです。わがままで自分を喜ばせることしか考えていません。また彼らは高慢な者たちです。彼らは「栄誉ある人たち」、すなわち悪いみ使いたちをそしります。問題のある相手であってもののしったり悪口をいうことはそれ自体が悪いことです。また彼らは相手に対してみじんも恐れを抱きません。自分の方が勝っているというプライドから来るものです。信仰が成長するにつれてクリスチャンはプライドを何とか捨てようとします。試練と呼ばれるものを頂いて砕かれる作業がそれです。これまでの生活は自分の力に頼って来ました。クリスチャンになっても同じで聖書の教えを自分の力で実行しようと奮闘します…決して出来ません。いかに自分が弱く愚かな存在であるかを神は私たちに繰り返し教えるのです。そうすると、神のレッスン(試練)によって、自分ではなくて神に信頼を置いて生きることに変えられて行くのです。世の中ではプライドが美化され過ぎです。しかしプライドのゴールは自分の欲求を満たすことです。この罪を自ら取り除くことができないほど癒着しているのです。だからこそ、神の知恵と力を認めて、砕かれる必要があるのです。その時砕かれることは喜ばしいものではありません。しかし砕かれたあと、クリスチャンは真理のうちにある自由を得ることが出来ます。罪を犯す自由ではなく、罪を行わない自由です。罪から離れることが出来るので平安です。み使いたちは悪いみ使いたちをそしって訴えませんでした(ユダ9)。正しくさばく方に任せたのです。もし私たちにプライドがあるなら、当然の権利として相手を責めるでしょう。しかし神の守りのうちにプライドの罪から守られているなら、責める権利を神に預けるでしょう。高ぶり(プライド)の足は私たちに簡単に追いつきます。ですから、ダビデのように高ぶりの罪から守られるようにいつも祈らなければなりません。自分の弱さを知っているからこそ、祈らないではいられないのです。