3月10日 インドネシア宣教 ー主の御業に励めー ヨハネ4章31-38節

あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 
ヨハネ4:35


(3月7日ドルカス会 箴言2:1-12の学びから)

この聖書テキストで強調されているのは、「捜し」「探り出す」(4)です。似た表現として「受け入れ」「たくわえ」(1)、「耳を…傾け」「心を…向け」(2)、「呼び求め」(3)があります。これらを「わが子(或いは弟子)」に求めていることから、彼らを、自らをして求めさせようとするイスラエルの伝統的な教育法であることがわかります。その教育法に基づいてイエスは、「(聞く)耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:43、マルコ4:9)と教えました。「聞く気(聞く意志)のある者は自ら聞け」ということです。求めて得るべきは「知恵、英知、悟り」です。しかしここでの教えでは(原文)、それらは「これ」としか記されておらず、「捜し」「探り出す」ことに重点が置かれています。ザアカイがイエスを見ようと木に登った福音書の出来事は有名です。「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが…」(ルカ19:3)という部分ですが、これは興味本位な行動ではなく、熱心に探り出そうとしている行為です。またエレミヤ29:13に「もし、あなたがたが心を尽くして私を捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」とあります。神はその大切な霊的作業を民自らが行うことができるように、ユダ王国をバビロンに引き渡す(捕囚の民)という「わざわい」を与えました。しかし、最終的に「それはわざわいではなくて、平安を与える計画」(エレミヤ29:11)でした。私たちのうちにないからこそ、神の知恵であるみことばを捜し求める熱意が必要であることが教えられます。捜し求めた結果、知恵が心に入ります。それはたましいを楽しませるものとなります。その楽しさはイエスがまことの救い主キリストであることの確信から来る喜びとしての楽しさです。それまで周囲に遠慮し、躊躇していたイエスへの思いを、大胆に証しする楽しさを味わうことが出来ます。