2019年5月26日 コリント人への手紙第一 -宣教のことばの愚かさ-

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
Ⅰコリント1:21


講解説教 №11
Ⅰコリント1章19-21節

 イエスキリストの十字架と復活という福音を聞く人はどう思うのだろう?と考えた末に、福音そのものでは馬鹿にするので、人間的知恵をそこに加えなければとしたのがコリントの兄姉たちでした。聞く人がどう思うかという視点で進めると、聖書が軽んじられます。「新正統主義」の立場は、聖書は誤り得る人の言葉とします。しかしある人が聖書を読むとき、神が何らか働かれて、その言葉を用いてある人の心の中に働いてくださる、それが神のことばとなるという信じ方です。人の知性を優先させる都合のいい聖書理解です。どの時代にも福音を変えてしまおうと、教会をかき乱す者たちがいるのです(ガラテヤ1:6,7)。私たちは福音の真理に立ち返らなければなりません。パウロはイザヤ書を引用して信仰の矯正を行います(イザヤ29:13,14)。そこで神は人の知恵も賢さも消し去ると言われました。神が人の知恵を愚か(無価値)としたことには理由があります。人の知恵は罪の中から救いへと導くことが出来ないからです。もう一つは人の知恵は真理を見分けることが出来ないからです(ローマ1:22,23)。
福音の働きにおいて神が定められたことは、神のみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して信じる者を救おうと定められたことです。神が定められ、大変満足されたことは、福音を聞く人が興味を抱き、喜ぶようにすることではありません。神が用意された「十字架の死と葬り、復活を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちを与える」という、そのままの福音によって信じる者を救おうとされることに満足されたのです。それが神のご計画です。もし人が罪を悔い改めて、キリストが十字架によって備えられた救いを信じるなら、神はその人を必ず救ってくださいます。人がどう思うかではない、神がどう思うかです。