2019年6月16日 コリント人への手紙第一 -十字架につけられた方を宣べ伝える‐

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
    Ⅰコリント2:1


講解説教 №14
Ⅰコリント2章1-2節


 パウロが宣教において、決して譲らず大切にしたことの一つは、「神のあかしを宣べ伝える」ことです。「あかし(ミステリオン)」は、神の奥義であり、神が明らかにしてくださることで(啓示)、人が初めて知り得るものです。具体的にはキリストを通して人類を救う神のご計画のことです。この地上で私たちが宣べ伝える神のあかしとはそのことです。「宣べ伝える」とは告知や宣伝のことです。分かりにくかったら宣伝にはなりません。私たちは神の救いのご計画を明確に宣伝するのです。罪を贖うためのキリストの十字架を含む、神の救いのご計画を宣べ伝えるのに対して、私たちの考えや思いは不要です。二つ目に、パウロが大切にしたことは、すぐれたことば、知恵を用いて神のあかしをしなかったことです。巧みな話術や言葉遣いで神のあかしを宣べ伝えることは人為的だとパウロは言いたいのです。弁舌とともに神の愛だけを強調し、人の罪を語らないとしたら、それは「信じます」という言葉を引き出させたいのであって、神によって心から信じるものにはなり得ません。神が語れと言われた福音を、そのまま語ったら、そのメッセージをだれが信じるだろうか?!と私たちは思ってしまうのではないでしょうか。そもそも、これらのことを私たちが心配する事なのでしょうか。人を救い得るのは神です。神の救いのみわざに私たちの助けや工夫は必要ありません。パウロは「十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したから」と、神のあかしを宣べ伝える理由を述べています。これは十字架のイエスキリスト以外は価値を認められないということです。ですから、福音を拒み続けている人であっても、その人に最も大切なのはイエスの十字架なのです。これまで以上にイエスの十字架の重要性に気づくなら、何をどう語るのか変わるでしょう。