2019年9月22日 コリント人への手紙第一 -必要な悲しみ-

それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。         
Ⅰコリント5:2 
 

講解説教№25
Ⅰコリント5章1-8節


 5章から不品行の問題についてです。この問題を通してパウロは、教会が罪に対してどのように振る舞うべきかを教えます。第一に教会は罪を正しく憎むことです。それを怠ると、教会のなすべき愛の実践を勘違いして、「かわいそう」と罪をも受け入れてしまいます。コリント教会は不品行の罪を黙認していたのです。だからパウロは厳しく、その罪の行為をしている者を取り除こうとして悲しむこともなかったと言ったのです。特にコリント教会の問題は、罪ある者を愛して受け入れたと誇っていることです。罪を裁かないことを、自分たちを誇る理由にしているのです。高ぶることをやめれば、罪を悲しむことをしなければなりません。彼らはその部分で戦わなければならないのです(ヤコブ4:9,10)。第二に教会は罪を正しくさばくことです。パウロがエペソにいながらにして、不品行の罪を犯した者をすでにさばいたとは、教会から除名したということです。除名の目的はその人が本当の救いを自分のものとすることです。本当に救われていたとすると、神を愛し、神に従うはずです。その信仰の行為が見えないとすると、その人の信仰をもう一度吟味する必要があるのです。その手段が除名です。教会が聖書に基づく除名の目的を共有していれば、「厳しい、かわいそう、かえって証しにならない」などという人間的な判断から守られることになるのです。第三に教会をきよく保つことです。「古いパン種を取り除きなさい」とパウロが言ったのは、高慢を取り除けということです。高慢はイースト菌のように少ないものでも全体に及ぼす影響が大きいので取り除けと命じるのです。
イエスは罪人を愛し、罪を憎まれました。教会も罪はどこまでも憎み、罪人を愛するのです。除名は愛があって初めて可能な行為です。