2019年9月29日 コリント人への手紙第一 -必要な悲しみ その2 -

私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
Ⅰコリント5:2
 

講解説教№26
Ⅰコリント5章9-13節

コリント教会の兄姉たちは「不品行な者たちと交際しないように」とのパウロの指示を誤解し、教会外の一般の人との交際を禁じられたと思っていました。ところが教会内の人たちの中で不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者と交際しないようにとの指示だったのです。教会内のクリスチャンの中にそういう人がいるのか、という疑問を抱きますが、これは聖書が示すことです。そういう人は一時的、瞬間的な罪ではなく、その罪の犯し続けて止めようとしないこと、罪の生活がその人の生き方になってしまっていることを言っています。「貪欲な者」は決して満足しない人のことです。クリスチャンは、「鳥をも神が養い、鳥よりもはるかに優れた人間を神は必ず養う」と信頼するように成長していくはずなのですが。「酒に酔う者」は単に飲む以上に、我を忘れて、冷静な判断ができなくなるほど酒に支配される人のことです。成長したクリスチャンは、何が神の前に正しく、何が喜ばれるかを考えながら行動します(Ⅰコリント6:12)。「人をそしる者」は他人を非難したり、悪く言ったりすることです。成長すると、人の徳を養うのに役立つ言葉を話すようになりますが、いつまでも陰口をたたいていることを楽しんでいる人はどうしてなのでしょう?「略奪する者」は泥棒のことです。成長したクリスチャンは、「自らのための仕事ではなく、相手の利益のための仕事」に至るまで成長するのですが。これらは一般的には罪とされないものです。しかし教会は重要視します。というのは、その人の行いを見ることによって、その人の救いの有無が分かるからです。教会内におけるさばきは、生ぬるい信仰で満足している者に警告を与え、救いを確かなものとすることができます。信仰に生きる私たちも、より正しく神の御前を歩むことが出来ます。