2019年11月24日 コリント人への手紙第一 -神に喜ばれる生活 2-

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
創世記2:24


講解説教№31
Ⅰコリント7章10-16


 クリスチャンとして結婚をどのように考えたらよいかという問いに、パウロが答えているのが7章です。結婚観はその時代によっても違い、個々でも違います。タブー要素の多いと思われる性の理解となるとなおさらです。10節以降パウロは、離婚してはいけないことを命じています。なぜいけないのか、聖書に、その根拠があります。「ふたり(夫婦)は一体となる」(創世記2:24)とは結婚の奥義です。結婚は、それまで無関係であった二人が、出会って結ばれるのではなく、本来一体であった者たちが、その本来の姿を取り戻すために結び合わされるというのが聖書の結婚観です。男が先に創造され、「人(男)が、ひとりでいるのは良くない」と神が判断され、「ふさわしい助け手」としての女が造られました。助け手とは、自分のできることを代わってやってくれる援助者ではありません。男にはない、欠けたところを助けるパートナーが助け手です。神が結婚を奥義として定められたことは、男と女のふたりが、ふたりなのではなく、「ひとり」である(一体)ということです。一枚岩です。このことから、離婚は禁止事項というよりも、「ひとり」を引き裂くという成り立たないことなのです。この奥義に基づいて、パウロは、既に結婚しているクリスチャンに離婚してはいけないと命じました(10)。万が一離婚してしまった場合には、再婚せずにいることを教えました。離婚したとは言え、一度一体となった者が、別のところで新たな「一体」を築くことは、本来起り得ないことだからです。ですから、もう一つの選択は和解することです。次に夫婦のどちらかがクリスチャンでない場合に対しては、一体という奥義に立つクリスチャンの側から離婚を提案してはならないと教えます(12,13)。もしクリスチャンではない側が離婚を切り出した場合は、安易に同意すべきではありませんが、どうしても離れていくというなら、そうさせなさいと教えます。その理由は、離れていく側に聖書の結婚観がないこと、また「…神は、平和を得させようと」とあるように、一緒にいることで理不尽さが増すことを避けるため、また、結婚関係に縛り付けておいて、相手を救い得るかどうかは、こちらが判断できないためです。結婚において神に喜ばれる生活がどういうことか、「自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(6:20)ということがどういうことか、じっくり吟味しましょう。