2019年12月1日 コリント人への手紙第一 -与えられた召しのまま従うとは-

ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。
Ⅰコリント7:17


講解説教№32
Ⅰコリント7章17-24

「神がおのおのお召しになったとき」とは、救われて信じる信仰が与えられたときのことです。「おのおの主からいただいた分に応じ」とは、神からの割り当てがおのおのにあるということです。私たちは、おのおのに具体的な生活をし、家族を持ち、或いは社会の中で具体的な立場を負っています。そういう状況の中で私たちをお召しくださったのです。例えば聖書に登場するザアカイは、たまたま背が低かったのかもしれませんが、彼にとっては重要な状況の一つです。そのことにより木に登らなくてはならなくなり、イエスに見出されるのです。召された時の状態とはそういうことであり、そこに留まって歩むことが教えられているのです。私たちの救われた時のすべての状況を、ご自身の救いのご計画の中で、神は生かされるのです。皆さんは自分自身の状況を悲観してはいませんか。その人は他でもない、神はあなたを呼び、キリストのいのちをもって買い取られたあなたそのものを用いようとされているのです。当時は割礼のある、なしが問題でしたが、パウロは割礼のある者も、ない者も、今あるがままの姿で神は招いておられる…ですから現状のまま歩みなさいと教えているのです。また奴隷制度が存在していた当時は、奴隷の身分のクリスチャンがいたようです。その身分を恥じるクリスチャンに、主にあって召された者は主にぞする自由人であると言ったのです。ペテロの手紙の中で、奴隷のクリスチャンに対して「…横暴な主人に対しても従いなさい」(Ⅰペテロ2:18)とあります。これは主に属する自由人でなければできないことです。奴隷であるか、自由であるかという身分は重要ではありません。その置かれたところで神の命令を守ることの方がはるかに重要なのです。ですから、おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいようではありませんか。