2020年1月26日 宣教月間 -深いあわれみ-

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。 
マタイ9:36


マタイの福音書9章35-36節


 イエスは「すべての町や村」すなわち、「ガリラヤ全土」を巡り歩いて、宣教に従事されていました。「教え」「宣べ伝え」という言葉による働きと、「いやされ」というわざによる奇蹟をもって御国の福音を宣べ伝えました。そこには病気、わずらいに苦しみ、悪霊に苦しむ人たちがいたからです。イエスは彼らを「羊飼いのない羊のように」見なされました。このような言及が旧約聖書には度々出て来ます。実際の羊は牧する人がいないと死んでしまうに、神から離れた人たちは、迷い出て、衰え果ててしまうのです。イエスはそのような人々をご覧になり、かわいそうに思われたのです。この深いあわれみがイエスの宣教の動機です。イエスが抱かれたあわれみの心を私たちも抱くのです。どのように抱くのかはエレミヤ書のことばにヒントがあります。「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」(エレミヤ31:20)神の約束のゆえに神は民を一方的に愛し続けるのですが、民は平気で裏切ります。そこに生じる痛みが、神をわななかせます。それでも愛することを止めないところにあわれみが生じるのです。神の痛みはイエスキリストの十字架において最も現されました。ご自分を侮辱する者のためにとりなすことができるのは、十字架から深いあわれみが溢れ出ているからなのです。私たちも、家族や友人のために祈り続けます。神に近づいたかと思えば、救いに至らない彼らのために、なおも愛して祈り続けるのです。そこにわななきから来るあわれみが生じるのです。イエスが人々に深いあわれみを示されたのは、巡り歩いた先でのことです。「舟から上がられると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで」(マタイ14:14)。これに倣うなら、部屋で祈っただけではあわれみは生じません。牧者のいない彼らと直接かかわることによるのです。