2020年6月14日 コリント人への手紙第一 -御霊の賜物について(3) ~キリストのからだ~-

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべてのものが一つの御霊を飲む者とされたからです。
Ⅰコリント12:13


講解説教№51
Ⅰコリント12章12-27節

 パウロは、賜物を誇り、他の人を批判するコリント教会に対して、「…からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリスト(のからだ)もそれと同様です」(12)と、教会をキリストのからだにたとえます。これは単にわかりやすくたとえているのではなく、教会がキリストのからだとして、実際に生きている有機体であることを教えています。組織体だけであるなら、他にも優れた団体があるでしょう。決定的な違いは、教会自体にキリストのからだとしての生命機能が備えられているということです。ですから、そのからだ(教会)が宣教の働きを成り立たせるために、聖霊がおのおのに賜物をお与えくださったのです。生けるキリストのからだであることの根拠は13節です。イエスを信じた人たちは、本来受け入れ合うことができない立場にあった者ですが、救われたときに御霊の内住としての「御霊によるバプテスマ」を受けました。御霊によるバプテスマは、救われた人の身分、立場、経験、能力にかかわらず、信者たちをキリストのからだの一部分としてくださる神の働きです。人間的に見れば決して一つになることのできない者たちが一致するのは、人の意志や決意によってではなく聖霊の働きなのです。どんなに才能豊かな立派な人間が集まっていたとしても、キリストから離れた目的でその才能を用いていたのでは、キリストのからだとは言えません。また、キリストを抜きにした親密で、互いを思いやる人間関係がそこにあったとしても、キリストのからだとしての教会とは言えないのです。教会が一つであるのは、一つにしようとする私たちの思いや意識が一つであるからではありません。キリストのからだにおいて一つにさせてくださった聖霊の働きによるのです。それゆえに、14節以降に記されているような、からだの各部分が互いにうらやんだり、批判し合うことは成り立たないのです。むしろ、キリストのからだは弱く見劣りするような部分をなくてならないものとして尊ぶのです。そもそも罪人であった私たちは、弱く救われがたい者だったからこそ、神のあわれみにより救っていただいたのです。その恵みによって教会もかたち造られていくのです。