2020年6月28日 コリント人への手紙第一 -御霊の賜物について(5)~愛がなければ~-

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。Ⅰコリント13:3

講解説教№53
Ⅰコリント12章31節後半-13章7節

パウロは「よりすぐれた賜物」としての愛を、「さらにまさる道」と言いました。道は、そこを通って目的地に行くことの出来るものです。どんなに素晴らしい賜物を持っていても、その道を通らなければ目的地に行くことはできません、その賜物が生かされず、実りを生むことが出来ないのです。賜物は愛と結ばれて初めて意味を持つことが出来るのです。愛と結ばれていない異言はうるさいだけです。山を動かすほどの完全な信仰があっても、愛が伴わないなら役に立たないと聖書は言います。最高の善であっても、命を犠牲にするほどの自己犠牲でも、聖書は愛と見なしていません。なぜでしょう?「私」がそれを愛だと思うその時、それは愛でなくなるのです。愛は神からの賜物だからです。そうである限り、愛を扱うにあたっては、人の意志は重要ではありません。愛の主体はどこまでも神です。私たちには愛はありません。それを認めて神の愛に服すとき、初めて本当の愛を、私を通して実現することができるのです。私たちは神の愛を実現する媒体に過ぎないことを心に留めましょう。4節以降、「愛は~」というふうに15の動詞が用いられています。それが示すことは、愛が行為であるということです。そして注目すべきは、主語が「私」ではなく、「愛」(神の愛、神)であるということです。私たちが主体ではなく、どこまでも私たち人間の中で神の愛が主体となって働くのです。人間的な愛は、ねたみと背中合わせであり、不正にも目をつぶることが愛であるかのように言います。しかし神の愛は「不正を喜ばずに真理を喜びます」とあるように、正義を曖昧にして、人を甘やかすことをしないときっぱりと言っています。教会は愛が試されるところです。特に戒規の問題がそうです。その人自身を憎むのではなく、その人が犯した罪を憎むことを知らなければなりません。真理を保つために戦うことを避けてしまう教会は、ほんとうに愛に生きているとは言えないのです。13章に示される愛の行為を見て意識すべきは十字架のキリストです。私たちのうちに絶対にない愛です。その愛を伴った上で賜物を用いるのです。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)愛が注がれているが故に、熱心に求めるのです。