2020年9月6日 コリント人への手紙第一 死者の復活について(5)~福音に基づく復活をせよ~

目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っています。  Ⅰコリント15:34 講解説教№62 Ⅰコリント15章29-34節  キリストの復活の目的は、罪によって肉体も心も霊も破壊された人間を救うためです。破壊とは死のことであり、私たちを罪とその死からすくうためにキリストが肉体をもって死者の中から復活されたのです。パウロは、「もしこうでなかったら(もしその復活がなかったら)」第一に、なぜ死者のためのバプテスマをするのかと問いかけます。『救われたが、バプテスマを受けずに亡くなったクリスチャンのご遺体にバプテスマを施す』(聖書的根拠のない考え) 等、死者のためのバプテスマについては数多くの解釈があります。いずれにしても、死者にバプテスマを施すのは復活、永遠のいのちにあずかることを願ってのことだとわかります。そもそも、復活の希望がないなら、バプテスマを受けること自体無意味です。キリストとともに罪に死に、キリストとともに新しいいのちのうちにある復活にあずかることをあらわしているのがバプテスマだからです。第二に、もし復活がなかったら、なぜ危険を冒して宣教のために戦うのかと問いかけます。パウロが常に死と隣合せの宣教を展開できたのは、復活の希望があるからです。その希望を見つめるとは、死を超えた先の永遠を見つめることです。死を滅ぼしたキリストに信頼するなら、実際に迎える死も恐怖ではないのです。「自分の身を守ることを取るか、それとも神のみこころに従う正しいことを取るか」私たちはこの先、厳しい選択を迫られる時が必ず来ます。そのとき、復活の希望に生きている人は正しい道を選び取る勇気も与えられるでしょう。第三に、もし復活がなかったら、人間の倫理、道徳が崩壊してしまうことを問いかけます。正しいことのために、したくないことでも成し、したいことでもしない、という思いがあって社会が成り立ちます(一般論)。死を超えたところの神の恵みが見失われ、この世界の人生だけが全てならば、クリスチャンも「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」というところに簡単に陥ります。もし復活がなかったら…?という誘惑は繰り返す波のように来るでしょう。しかし、そのときに「神についての正しい知識を持っていない」ために、そうなってしまうのであれば、責められなければなりません。パウロはその人をはずかしめると。それは、その人を罪に気づかせて、復活の信仰に戻すためです。