2021年1月10日 主と交わる その2

しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。    Ⅰコリント6:17 Ⅰコリント6章12-20節 信仰者に与えられた自由ということから、主との交わりについて考えます。私たちに与えられた自由は、やりたいことを思うままにやる自由ではないことは承知されていると思います。そうではなくて、キリストによって罪から解放された自由です。イエスキリストの救い、すなわち、十字架と復活の力に与かるところの自由です。私たちに与えられた救いの事実と「自由」を分離しないで、両者の関係を正しく理解して自由というものをとらえます。そうすることで初めて私たちの益となります。お腹が減れば「食べたい」となります(13節)。人の本能的な欲求です。ただ命を支える食べるという行為は、永続的な働きとしては残りません。健康のために制限することがあり、逆に、ストレスで食べてしまう場合もあります。食べる自由、食べない自由があり、また、支配的な不自由さもあります。性的欲求については、パウロは食欲とは違う見方をしています。「からだをみだらなことに使ってはいけない。神から頂いたからだをもっと大切に扱いなさい…何のためにからだを用いるのか?…」という倫理的なことをパウロは論じておらず、「私たちのからだはだれのものか?」という本質的なことを議論しています。そう議論する理由は「神は主をよみがえらせました…」というところにあります。キリストが私たちを罪から解放するために、その罪を十字架で背負い、死んで葬られ、三日目に朽ちないからだによみがえられました。これはどういうことでしょうか?救われた私たちがキリストと共に罪に死に、キリストの復活と共に朽ちないからだによみがえらされる者とされたことを意味しています(14)。その結果、私たちのからだはキリストのからだの一部とされたのです。私たちのからだは、十字架と復活によって、キリストと結合されたのです。それにより、私たち自身は私たちのものではありません。キリストのものです。ですから、キリストのからだとして、その一部である私たちが、キリストの動かれる通りに動くなら、罪の支配から自由にされます。しかしもし、キリストのからだの一部であるにもかかわらず、自分がしたいように動くならば(不品行)、それは罪の奴隷の支配下であることは明らかです。 まず、キリストと結ばれて「一つ霊」となったこと、自分自身がキリストのものとなったその事実を確認しましょう。このキリストと交わるならば、罪に振り回されることのない真実な自由が与えられます。次に、私たちはキリストと交わることを阻害する罪から離れましょう。倫理的な意味で離れるのではなく、自分がキリストのものであり、その交わりを阻害するものとして離れるのです。