2022年4月3日 説教テーマ「神との平和」

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 ローマ5:1 ローマ人への手紙5章1節 №24 「義と認められた私たちは…神との平和を持っています」という話は、全章のアブラハムの話から続いています。アブラハムが神との平和を持っていると言うことになりますが、望みえない絶望を数多く経験した人です。ただその試練が、結果として望みにおいてアブラハムを強めました。ですから、神との平和を持っているという話は、試される信仰の話なのです。ちなみに「平和」の一般的な意味は「戦争等がなく世の中が穏やかな状態にあること、心配やもめごとがなく、おだやかなこと」です。後者の平和は私たちの周囲にもありません。そしてそれは終末が迫るほど、いよいよなくなります。ですから、患難の中にあるクリスチャンは、備えとして、神の約束の深い意味をどうしても知らなければなりません。5章 1 節の教えは、平和がないからこそ、なおさら心配やもめごとがないようにする教えではなくて、平和がどこにもないような中で、生きた信仰を持ち、約束を疑わず、望みをもって福音を宣べ伝えるという教えなのです。改めて、義とされたとは、神の怒りの対象であった罪人が、なだめの供え物としてのキリストが十字架の死でささげられ、キリストという代価が罪のために支払われて贖われたことで、神との正しい関係に入れられたことを言います。神との平和はそこから来ます。罪を犯す前のアダムとエバは神との平和を持っていました。夫婦に一つの争いがなく、他の被造物である動物とアダムとの間にも平和がありました。動物はアダムを襲わず、アダムも動物の肉を食らうことはありません。そのように全てにおいて平和を持っていたのは、神との平和を持っていたからです。しかし罪を犯して神との関係が死んだとき、人は神から隠れ、人は互いに責任をなすりつけ、人と動物の間にも敵意が芽生え、すべてにおいて平和を失いました。もはや争いや心配がない平和な状態は望めません。しかし、神との平和はその混乱のただ中に存在します。義と認められた人にだけです。なぜアブラハムが試練の連続の中で、望みえない絶望の中で、望みを抱いて神を信じる信仰に導かれたのでしょう?そのようにして義とされたことで、争いと滅びの世界の中で、神との平和をもって初めて生き抜くことができるからです