2022年7月24日 説教テーマ 「律法の正体」

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 ローマ7:7 講解説教 ローマ人への手紙7章7-12節 №38 律法そのものは罪でないけれど、律法によらないでは、罪を知ることがなかったとパウロは言います。私たちが律法から解放されなければならないのは、律法が罪の働く機会となっているからです。「かつて律法なしに生きていた」とパウロが言うのは、ユダヤ教徒として厳格に生きていた時のことです。それこそ律法を持って厳格に守って生きていたのです。ところが本来の律法が来た時に、罪が生きました。これまでじっとしていた罪が生き生きと活動し始めたのです。そうなるともう罪の暗黒です。聖書は、律法が聖なるもの、正しいものと言いますが、その律法が罪の働く機会となったとはどういうことなのでしょう?パウロは具体的に、「律法が『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかった」と言いました。創世記の堕落の記事との結びつきを考えましょう。アダムとエバが罪を犯す前、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない…」(創 2:17)と神は最初の戒めを与えました。彼らに罪を犯させようとしたサタンは、誘惑して罪を犯させるために、その戒め(律法)を利用したのです。「園のどんな木からも食べてはならないと…ほんとうに言われたのですか」(3:1)律法に従っても不自由になるだけだと。このように律法を利用し、神のようになるとむさぼりの思いを掘り起こさせるのです。むさぼりは、欲しがる思いにとどまらず、神に従って生きることを良しとしないものです。神は人間に園を設け、自由を与えられました。同時に戒めも与えられました。それは自由を与えられている人間が、その祝福と自由を与えてくださった神に従い、交わりのうちに生きるために、踏み越えてはならない一線としてのものです。神と良い関係をもって生きるためには、神の戒めに聞き従うという姿勢が必要です。もしそこに窮屈さ、不自由さを覚えるならば、むさぼりの罪に陥っているかもしれないと考えなければなりません。今日のメッセージで知るべきは、先週に続き、罪の恐ろしさです。もし律法によって、むさぼりを知らない自分主体の生き方をしたら、したいことはできる、ほしいものも得る、しかしその命は死です。恐ろしい罪に気づかない、その恐ろしさ。しかし、キリストと出会って気づいたのです。