2022年8月14日 説教テーマ「内なる人、外なる人」

すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 ローマ7:22、23 講解説教 ローマ人への手紙7章21-25節 №40 善いことをしたいという願いと裏腹に、したくない悪を行っているとのパウロの嘆きは、救われる以前の話ではなく、彼がキリストを信じて救われたことで得た今現在の嘆きです。これは、自分の中で間違っていたことが判明したから改めるという簡単なことではありません。パウロが激白していることは、「(自分の中で)罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました」(13)ということです。キリストとの出会いによって、罪の正体を見させられ、今なお現存しているだけではなく、善いもの(律法)を通してこそ罪深くなる恐ろしいものです。「正しい生活を送ろう、人のために役立つことを、愛することをしよう」その純粋な思いを通してこそ罪が働くのです。間違った方向を改めるという単純なことだったら良かったのですが、歩んでいる自分自身が基本的に罪の配下に置かれ、自分が善いと思うことも、行動も信頼できないものになっているのです。これは救われて解決する問題ではありません。嘆きのあとに、パウロが感謝をしている(16)部分が解決のカギです。これは惨めさがなくなったことへの感謝ではないことは確かです。直後に「ですから」と再び自己分裂を言っていますから。これはキリストによる救いの感謝です。キリストを通して、罪の赦しと神の子としての新しいいのちが与えられたことへの感謝です。ただ、この救いはまだ完成していません。自己分裂がなくなり、この惨めなからだからの救いはキリストが再臨されるときに完成します。キリストを通して既に実現した救いと、その救いが必ず完成するという約束。パウロはこの両者に対して感謝しています。今の苦しみを正しく受け止めるカギは、将来完成する救いに対する感謝です。「内なる人」は喜んでいます(22)。救いにあずかった者が、イエスに似る者として、救いが完成していくこと、日々新しくされていくことを喜ぶのです。「外なる人」は衰えます(Ⅱコリント 4:16)。今のこのからだが悩み苦しみ、罪に陥る、そういう衰える現実です。しかし、内なる人は必ず、主の救いとして完成します。ですから、内と外の自己分裂が起こっても勇気を失いません(落胆しません)。