2022年8月7日 説教テーマ「誰が私を救い出してくれるのか」

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 ローマ7:20 講解説教 ローマ人への手紙7章13-25節 №39 律法は罪なのか、絶対にそんなことはない、むしろ良いものと説明し(7~13節)、では、この良いものが死をもたらしたのか、絶対にそんなことはないという説明がきょうのところです。死をもたらしたのは「むしろ、罪なのです」と言い、律法によって罪がその正体を現しているのです。罪は誰が見ても悪だと思うようなことを通して働きません。むしろ私たちが善いこと、優れていること、価値あることと思うようなことを通して働きます。かつてのパウロの一生懸命な律法順守がむしろ罪の働く機会となりました。そこに彼の嘆きがあるのです。自分のからだをもって営んでいる生活の全体が、罪に支配され、死に定められている滅びへと突き進んでいたのですから。パウロはそのみじめさを自己分裂として語っています。「自分のしていることがわかりません」と 15 節のほかにも 19、21 節でも。この自己分裂は、『しなければならないこと、或いはしてはならないことはわかっているが、弱さのために、その通りにできない』というものではありません。聖書の教えに従って生きようと努める、その自分に悪が付きまとい、かえってその熱心さを通じて罪が支配してしまっているのです。その自己分裂が起こる理由が 14 節です。律法は神が与えた神に属する霊的なものです。霊的なものに敵対する「罪ある人間(肉的な者)」はどこまでも折り合いがつきません。罪ある人間が、霊的な律法を守って生きようとしても、律法本来の意味や力など全く発揮されず、かえって罪の働く機会としてしまいます。これは 21 節で述べている原理原則なのです。パウロが自己分裂に気づいたのは、イエスを信じて救われた時からです。罪ある人間はもともと分裂に陥っていますが、救われたことで気づきが与えられました。この気づきはキリストの素晴らしさに照らされて自分の愚かさに気づいたわけではありません。罪ある者から霊の人に新しくされたからです。それによりどうしようもない自己分裂に気づかされました。暗かった心が聖霊によって明るくされたことで罪や不潔な思いがはっきりと見え、「私のうちに住む罪」と言わせたのです。この自己分裂の嘆きは今なお進行中です。この事実を受け止めた先に救いの救いの素晴らしさがあります。次回へと続きます。