2023年9月24日 説教テーマ「人の弱さを担う」

私たち力のある者たちは、力のない弱い人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。 ローマ15:1 ローマ人への手紙15章1-6節 「私たち力のある者たち」と、パウロは自分が信仰の強い者だという立場を述べていますが、ここで本当に信仰の強い人とはどういう人なのかを教えています。信仰の強い人とは人の弱さを担うことのできる人です。「担う」とは、「背負う」ことです。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マルコ 8:34)にある「負って」と担うは同じ原語が使われています。イエスはここで従順について教えています。自分の欲する思いを優先させるのではなく、神のみこころに従順になることを、自分の十字架を負うと表現しています。そのことから、人の弱さを自分の重荷として担うのです。重荷を負うことは楽なことではなく、むしろ苦しみを伴います。人の弱さは罪から来るもので、それを担うのですからなおさらです。自分の持つ信仰の自由から、みことばを信頼し切れない相手を、「それは信仰的ではない」と単に教えることは、弱さを担ってはいません。信仰の正しさを教えるとき、相手の弱さを負わずして教えるなら、それは自分を喜ばせているに過ぎません。人の弱さを担うとは、罪の重荷を担うよりも積極的なこととして、隣人を喜ばせることと教えています。これは個人的に喜ばせるわけではありません。「隣人を喜ばせる」との訳が、共同訳聖書だと、「互いの向上(建て上げ)」となります。つまり教会を建て上げるということです。信仰の弱い人の重荷を担うことで教会が建て上げられて行くのです。「霊的な成長」と言っているのは教会のことです。「キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。」と述べ、詩篇のことばが引用されています(3)。受難(十字架)の預言です。イエスに対する最大の嘲りは「十字架から降りて来い」です(マルコ 27:39-44)。私たちの罪を担うために自ら進んで十字架の道を行かれたのですから。イエスは自分を喜ばせることをせず、神の救いのご計画を遂行されました。このように、詩篇の引用にしろ、ローマ人への手紙にしろ、「書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました」(4)。その目的は「聖書が与える忍耐と励ましによって、希望を持ち続けるためです」希望とは、救いの完成としての終末的希望のことです。その希望のために聖書は私たちに忍耐と励ましを与えるのですから、終末的希望がどれほど大事なことであるか、明らかです。