2024年1月7日 説教テーマ「慎み深く」

ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 Ⅰテサロニケ5:6 テサロニケ人への手紙第一5章5-11節  昨年、教会は「主の日」すなわち終わりの日について聖書が語るままを知りました。今年は終わりの日に際し慎み深くいるように心がけることです。原語の意味は「酔わないで」です。身を慎むことをしないなら、それは酔っているようで、自分の置かれている状況がわからず、麻痺をしている状態です。終わりが迫っていても無頓着でいることになります。この状態は二つの両極端なことが生じます。一つは根拠のない安心を抱きます。終わりの日における警告や前兆があっても「平和だ、安全だ」(5:3)なのです。なぜなら、麻痺状態にあるからです。もう一つは底知れぬ不安を抱きます。自分がどこに置かれているのか、わからないことに気づくなら不安になります。聖書は思い煩いを神に委ねることを教えています(Ⅰペテロ5:7,8)。思い煩い続けることが罪だからです。もし身を慎むなら、根拠のない安心で身を守ることも、底知れぬ不安に悩むこともありません。私たちは慎み深く歩むことができます。なぜなら、光の子どもだからです(5:5)。「光」という原語からの意味からすると、光の子どもは神の永遠のご計画を悟り、それを伝える使命を与えられた人です。その神のご計画とはご自身の御国を完成させ、そこに民を一つに集めることです。神の民は旧約時代から現在、そしてこれから救われるであろう人たちのことです。キリストにより罪と死に勝利し、死者をよみがえらせて、すべての民を御国に集めるのです。キリストの復活はその保証です。そのご計画を悟る人は身を慎むことができるのです。信仰と愛の胸当てと救いの望みというかぶとを神の防具として装着する人は身を慎むことができます。信仰は成長するもので、愛は増し加わるべきものです。それを可能とするのが救いの望み、すなわち再臨の希望です。まさに神の永遠の計画を悟る者が慎み深くできるのです。ティアティラの教会は愛も信仰も、その行いも申し分のない教会でしたが(黙示録2:19)、イエスに責められました。救いの望みのかぶとを被っていなかったのでしょう。3点セットの防具をしっかり着けて、慎み深く歩みましょう。