2024年1月28日 説教テーマ「しもべの任命式」

「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。」 イザヤ42:1 神の御子であるイエスが、受ける必要のないヨハネからのバプテスマを受けられました。この理由は、神のお持ちの人間に対する救済計画に基づいて考えなければなりません。その計画とは人間を罪と死から完全に解放するというものです。すべての人間は死にゆく存在です。人間の持つ罪の代償が死です。つまりすべての人が罪を犯したのです。自ら罪を取り除くことのできない私たちは死を受け入れるほかないのです。そこで神は、ご自分のひとり子である御子イエスキリストをこの世に送り、人間の罪から来る刑罰をすべて御子に負わせて死なせたのです。それが十字架の死です。身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにされました。聖書はこのことを「購う」と表現しています。代価を払って買い戻すと言う意味です。人間は自らを買い戻すことができず、イエスだけが可能です。なぜなら、罪のないご自身のいのちが身代金だからです。神はこのイエスをよみがえらせたことで、人間を死を超えたところの永遠のいのちに至らせます(復活体)。これが神の救済であり、救いと呼ばれるものです。このことと、イエスのバプテスマとどう結びついているのでしょうか?イエスがヨハネからバプテスマを受けられたことで、バプテスマを必要とするに人間と同列に加えられることになったのです(ピリピ2:6-8)。人と同列に置かれたことで、人が被る死の苦しみをイエスが被ることができるようになりました。また人間が受ける罪の罰を代わりに受けることができるようになりました。罪は必ず罰せられなければなりません。もしそうしなかったら、神は罪を是認したことになるからです。しかし神は人間が滅びることを望まなかったのです。罪は断固として認めず、人は救われなければならない。このジレンマを解決するっために、神自ら犠牲を引き受けることにされたのです。イエスがバプテスマを受けられたとき、天から御父の声がありました。それが上記のイザヤ書のことばです。そこにはさばきを行うことが 実現されることが語られています。そのさばきとは神がこの世に正義を打ち立てるというものです。すなわち人間を罪と死から解放するという正義です。それは上からさばくものではありません。しもべとしてさばくのです。十字架と復活によってさばくのです。イエスがヨハネからバプテスマを受けたのは、そのしもべとしての任命式であり、その開始の合図なのです。