2024年2月4日 説教テーマ「試み(誘惑)」

イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。 マルコ1:13 マルコの福音書1章12-13節  十字架の死に至るまで仕えることとなるイエスは、しもべとしての任命式としてバプテスマを受けられました。父なる神の祝福のお声かけがありましたが、その余韻に浸ることも許されず、「それからすぐに」イエスはサタンの試みを受けるために荒野に行かれました。そこに導いたのは御霊です。イスラエルの歴史において荒野は象徴的な意味を持ちます。荒野は不安と危険の真っただ中で、神の見えにくい世界です。神に敵対する力だけが周りを取り巻き、信仰も押しつぶされてしまうかのように思えてしまうのが荒野です。「野の獣」という目に見える危険のただ中にいるイエスに安全な場所はありません。最大の敵はサタンです。敵対者はイエスから父なる神への信頼を失わせたいのです。そういう中で唯一の明るい話題は、御使いたちがイエスに仕えていたことです。これは詩篇91:11-13の成就です。マタイの福音書を見ると、御使いがイエスに仕えたのは、サタンがイエスから退いた後であることがわかります。つまり、誘惑の最中は御使いの守りはなかったのです。しかし、それはあえてです。サタンは詩篇91篇のみことばを悪用し、「御使いがあなたを守ると聖書にあるから、ここから飛び降りてみよ」と誘惑しました。これに屈すれば、父のみこころに背くことになるので、誘惑時に御使いがご自分に近づかないように制止されていたのかもしれません。荒野の誘惑の目的は、イエスが父のみこころにのみ従うことができるかのテストです。このテストが生かされたのが、イエスが逮捕された時です。敵の言いなりになったとき、イエスは自分の配下にただちに御使い部隊を置くことができると言われました。しかし、父のみこころに従うために、それを選ばず、十字架の死を選ばれました(マタイ26:50-54)。父のみこころ、それは人間救済の計画の実現です。これは既に天において決定されているものです。これを確信している人は誘惑から守られます。私たちはサタンの誘惑に勝つことは出来ません。誘惑(悪)は離れるべきものです(Ⅰテサロニケ5:22)。既に定められた神のみこころを確信した上で、悪への対処が可能となります。