2024年3月10日 説教テーマ「わたしについて来なさい」

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 マルコ1:17 マルコの福音書1章16-20節 №6  人が福音を信じて救われるのは、神の王国に入るためです。そのためにイエスの十字架と復活というみわざがあり、人間の罪と死を克服してくださるのです。神の王国がどのようにして築き上げられていくのかということが今日のテキスト以降に書かれていることです。その実現のための行動開始です。イエスはまず、四人の人とかかわります。協力者が必要です。さて、イエスと四人のガリラヤ湖の漁師たちとは初対面ではありません。すでにイエスはシモンの家に行っています(ルカ4:38…5:1~)。ではなぜ著者のマルコは、その出来事を端折って、イエスのことばにだけ反応するように記録したのでしょう(そもそも、福音書のうち最初に書かれた のはマルコですが)。イエスのことば、「わたしについて来なさい」は、そばに来るように、その後をついて歩いて来るようにというニュアンスです。これはついて来る者よりも、イエスに重点を置いた伝え方です。どういうことかというと、ついて来るほうは能力も、経験も心配せずに、無条件でただついて行けば良い、重要なのは声をかけてくださった方だということです。それこそ、この方の行き先は十字架です。そこに来たら真似ることも、ついて行くこともできません。そこからは、ついて来なさいとは言わず、十字架上から、「この恵みを受けなさい」と言われます。イエスについて行く彼らは「人間をとる漁師」になります。これは人を神のもとに導くことではなく、神のさばきを告げる者としての表現です(エレミヤ 16:16-)。王国実現プロジェクトはこのように一大事なのです。彼らはイエスに呼ばれたとき、すぐについて行きました。生きるに欠かすことの出来ない職や家族を置いてすぐにです。そこまでしてついて行く価値があるという情報を彼らが持っていたわけでもありません。説明がつかないのですが、もしこの方が『わが仰ぐべき王である』ということを垣間見ることができたら、説明がつきます。マルコは一番説明がつかない部分を、そのまま光を当てたことで、逆にイエスの王権支配が、今ここに起り始めているということを伝えたかったのです。あなたのうちにもその支配が及んでいます。 それがわかりますように。