2024年5月12日 説教テーマ「安息日の主」

そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」 マルコ2章27,28節 マルコ福音書2章23-28節 №14  イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことは、律法にかなったことだったのですが(申命記 23:25)、問題は安息日に行ったことです。十戒の第四の戒めとして、六日間働き七日目にはいかなる仕事もしてはならないとあります(出エジプト20:8-11)。これに従ってユダヤの指導者(パリサイ人)たちは、安息日にしてはならない仕事の規定を作りました。穂を摘む作業は仕事と見なされました。第四戒の意味は仕事を禁止することではなく、神の偉大なみわざに思いを向けて、その恵みに与ることです。神が天地万物を造られた時、七日目に休まれたことを覚えてその休みに与るために安息日が定められたのです。神がご自身の創造のわざをご覧になり、造られた世界と人間の存在を喜ばれました。その喜びと祝福に私たちを与らせてくださるのが安息日です。また安息日には、神によって私たちに休みが与えられるというもう一つの意味があります。それはイスラエルの民が奴隷状態にあったエジプトからの解放が安息日の根拠として教えている点にあります(申命記5:12-15)。奴隷であった時の民には休みがありませんでした。「七日目は…主の安息である…いかなる仕事もしてはならない…そうすれば…休むことができる」(申命記5:14)とあるとおりです。罪の性質を帯びて地上の生活をしている私たちのたましいに真の安息はありません。ですから、安息をいただくために安息日を守るのです(今は聖日)。「安息日は人のために設けられた」(マルコ2:27)とあるとおりです。イエスが、祭司以外扱ってはならない食べ物を食べたというダビデにかかわる エピソードをお語りになった理由は、空腹な人、安息を失っている人を神が養うことを教えるためです。安息を本当に必要としている人に与えられることが強調されています。もう一つの理由は、備えのパンを祭司が提供したのは、相手が神に油注がれた王となるダビデだったことです。イエスはダビデと等しい立場、いやダビデに勝る神の国の王です。この方が真の安息を与え、また養ってくださるのです。救われた者としての基本的な生き方は「喜びと祝いに生きる」ということでした。安息があればこその生き方です。