2024年6月23日 説教テーマ「神のみこころを行う人」

だれでも神のみこころを行う人、その人が わたしの兄弟、姉妹、母なのです。 マルコの福音書3章35節 イエスに対する人々の「おかしくなった」といううわさに同調した家族が、イエスを連れ戻しにやって来ました。彼らはイエスのいる家の中に入ろうとはせず、外に立っていました。大勢の人がイエスの周りにいるということもありますが、家族が外に立っているというのはそれ以上の意味があります。「おかしくなった」の直訳が「外に立つ」です(自分の外に立つ…自分を失う)。著者のマルコは、このことばを意図的に使い、自分を失っている外に立つ者はイエスとイエスの周囲にいる人たちなのか、それともイエスの身内及びうわさした人たちなのか?ということを考えさせようとしているのです。ここでイエスは家族を家の外に置いて、周囲の人たちに、わたしの家族とはだれでしょうか、と常識を超えたことを尋ねました。そして周りにいる座っている人たちを見回して、わたしの家族と言われたのです。そのイエスの心は、神のみこころを行う人であれば、だれでもイエスの家族であるということです。神のみこころを行う人とは、どういう人なのでしょうか?イエスのそばに座って教えを聞いている人か、救いや癒しを求めている人か…?同じ出来事を書き記したマタイ福音書では、わたしの母、わたしの兄弟たち(家族)とはだれでしょうかと尋ねたあと、「それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた」と記しています(マタイ12:49)。イエスの周囲に座っている人たちに弟子たちを含めるならば、イエスの言う神のみこころを行う人とは、神の国のメンバーであると言うことができます。イエスを信じて救われた神の国の家族のことです。「神のみこころを行う」とは、「神の意志を行う」ことです。そのご意志とは神の国を実現し、完成させることです。罪と死に打ち勝ち、永遠の神の国を確立することであり、そこに入るのが神の家族です。神の国は永遠的なものです。そこに入る神の家族も永遠的です。私たちの罪を赦すために十字架で死なれたイエスが三日目に復活されたのは、神の国に入った私たちが永遠に神とともに生きるためです。イエスが、血縁関係にある家族よりも神の国における家族を優先されていることは明らかです。前者は一時的、後者は永遠的です。イエスにつまずくことがないように、見えない永遠的なものを見ましょう。