2024年6月2日 説教テーマ「御言葉を語るために」

イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた。 マルコの福音書3章9節 イエスのもとに、すべての地域から非常に大勢の人々が集まって来ています。これまで「イエスが行っておられることを聞いて」というのが集まる理由です。つまり、病や苦しみから解放してほしくて、恐らく1万人もの人々が集まって来ていると考えられます。(マルコ6:44)彼らは「イエスにさわろうとして」います。イエスの神としての権威と力は、触れるだけでその力が発揮されるからです。イエスはこのとき小舟に乗り、湖面の広大な緑地にいる群衆から距離を取りました。押し寄せる群衆から身を守るためでしょうか?それもありますが、マルコ4章1,2節、ルカ5章2,3節に同じ状況があるところを見ると、別の理由があることが分かります。神のことばを語るためです。群衆が求めているものは、神のことばよりも癒しです。最初は足しげくイエスのもとに集まった群衆ですが、最後にはひとりもいなくなりました。むしろ、イエスを十字架につけるために集まり、ユダヤ指導者たちとともに訴えたのです。自分が求める救いが救いで、それを与えるのが神であるというのが根底にあるのか、その救いが与えられないとわかると、そっぽを向くのです。イエスはそれを承知しているからこそ、あくまで神のことばを語るのです。その結果十字架に追いやられても、その歩みを変えようとされません。それは人々がご自身と真に出会い、そのかかわりから真の救いを与えようとされているからです。癒されただけなら、その時点でイエスの必要性はなくなります。それは表面的な出会いでしかないのです。「…神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と いう教え、つまりイエスが私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目に死者の中からよみがえられたことによって、罪と死を取り除く、その福音を信じなさいとイエスは呼び掛けておられます。しかし、人々は永遠の祝福に目を向けず「そんなことよりも癒しを与えよ」と要求します。聖書が与えようとしている救いを改めて考え、聖書が宣べ伝える救いを宣べ伝えているのか、 よく考えたいのです。