2024年6月30日 説教テーマ「神を恐れるとは」

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。 神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 伝道者の書12章13節  伝道者の書は、ダビデ王の息子であり、父ダビデに続いてイスラエルの王となったソロモンを通して書かれました。今日のみことばは、伝道者の書の締め くくりのことばであり、ソロモンが辿り着いた結論でもあります。「神を恐れよ」ということばをどう受け止めるかは、今日のメッセージを理解する上で極めて重要です。もし「恐がる」という意味で受け止めたら、「神は恐ろしい方だから、神の命令には従わなければならない。そうしないと罰せれる」となってしまいます。でも、「神を恐れよ」とは「神を恐がりなさい」という意味ではありません。「神の権威を認め、まりなさい」ということです。礼拝はまさに、神を畏れ敬う行為です。そして、礼拝する動機が問われます。礼拝は、しないと罰せられるからするものではありません。キリスト者は、そのような恐れから解放されています。礼拝とは、イエス・キリストを信じて救われている者が、その愛に応えてささげるものです。まず、主イエスが私たちを愛して下さったのです(Ⅰヨハネ4:18-19)。その愛の深さをよく知る必要があります。そして、私たちは神のさばきについても正しく知らなければならなりません。キリスト者には、さばきを受けて罰せられる恐怖はありません(Ⅰヨハネ4:17)。なぜなら、受けるべき罰は、 すでにイエス・キリストが身代わりとなって受けて下さったからです。イエス・キリストが死からよみがえられた時 、弟子のシモン・ペテロにどう接したかを思い出して下さい。イエスのことを三度「知らない」と言ってしまったペテロに対して、イエスは三度問いかけました。「あなたは わたしを愛していますか。」(ヨハネ21:15-17)イエスはペテロをさばきませんでした。これが主イエスの愛です。そして私たちもこの愛を受けているのです。私たちの信仰生活は、イエス・キリストの 愛に基づいているでしょうか。さばかれる恐怖から解放されて、キリストの愛に応えて礼拝しているでしょうか。