2024年7月14日 説教テーマ「聞く耳のある者は(2)」

「それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」 マルコの福音書4章12節 イエスのたとえ話は、「わかりやすく」が目的ではなく、考えさせることが目的に語られたものです。考えさせようとしていることは神の国についてです。それはイエスが来られて「近づいた」もので、そのゴールは「新しい天と新しい地」と呼ばれる完成した天の御国です。私たちには想像も及ばない、罪と死のない世界です。今その実現のプロセスの中にいます。その神の国を描き出そうとしているのがたとえ話です。神の国は「神の支配」とも言うことができます。どこまでが神の支配で、どこまでがサタンの支配なのか…?これはわかりやすく説明できるものではなく、聞く側が納得する事柄でもありません。神の支配は、それを信じ受け入れるか、受け入れずに反抗するかどうかというものです。神であり人である神の御子、罪を赦すということ、永遠の天の御国を、どうしたら人間的に納得できるでしょうか? もし神の国を信じること(信頼すること)がないのなら、たとえは決してわかりません。神の国の「奥義」という言葉が元になって英語の「ミステリー」という言葉が生まれました。まさに神の国は隠されているので、見て納得するというのは筋違いです。信じる信仰というのは、隠されているその事柄を信じることです(見えたら信じる必要はない)。イエスが神の国は「近づいた」と言われたのも、まだ目に見える形では来ていないということです。しかし今や決定的に実現しようとしている神の国を信頼しなさいと言われているのです。「信じて待ち望む」ということがないクリスチャン生活ほど無意味なものはありません。イエスのたとえ話が終わってもなお残った人たちと、帰った人たちとがいました。そのことは、神の国を信じる信仰がどのようにして与えられるかを教えてくれています。それはみことばを聞いてなおそこに留まり続け、語られた方と共に歩むことです。神の国は論理や思想ではありません。イエスのもとで実際に起きている出来事そのものです。そこに身を置くことをすれば良いのです。具体的には、聖書のみことばを聞き続けること、受け入れ続けることです。私たちの現実はサタンの支配であり、困難であり、誘惑です。それらは目に見えて いるもので、神の国は隠されているのです。しかし、神の国の実りは100倍と、目に見えているところを覆い尽くします。